marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(426回目)寄り道その五:昭和の文学 評論家佐古純一郎という人がいた④

2017-09-02 02:55:24 | 日記
 評論家佐古純一郎のこの著作を本棚に持っていた理由は、表題から見られるように時代考証から当時の文学を同じ時代を生きている読者の声を聞きながら倫理的考察をして、何が僕ら人としての普遍性のある倫理性の核のようなものを追究していくのか、難しく言えばそのような考察が見られたからだ。真摯にどこまでも人の言葉を追究すれば、地球に「人」という「種」がいる限りイエス・キリストの「ことば」に必ずぶつかる。ここで宗教性か、など照れくさく考えを引いてしまうのは、その考えの媒体に今までの人の言われてきたことが少なからず、正しい自分の意見を持つ前に障害となっていることを冷静に思ってみるべきです。
◆彼の批評には(だからというか)いろいろ批判もあったようだが、日本の今を形作る過渡期の言葉の専門家たち(作家)の言葉の格闘を見れば(作品を読めば)、生きるという事において、その通奏低音のような「おもり」が、この国に於いてはどうにも観念的なぼんやりした過保護的な想念にまとわりつかれているようで、相対的に自己を見る、自分のことを自分の言葉で突き放してみる、そして新しい自己として前進する(ここは旧約聖書で言えばアブラハムの出発の必要性・・・あえて)ということの、そのための足がかりが見つけられないために挫折が見られてきたことです。そういう中で、戦争に負けて自己の言葉を追究することが、戦後の復興の中でさえ暗中模索されてきたのですが、例えば1960年代の評論家福田恆存の文学談義の総括なども、ストレートに西欧との比較について問題提示(キリスト教にぶつかってみること)の必要性を説くのですが、こういう批評の文章もこの国では内心の恐れがあるのか課題として、ましてや流布されることは一般受けしないので残らない。しかし、佐古の「文学をどう読むか」1958年初版という僕が引っ張り出してきた文庫も20年後には41版を重ねて、その内容はキリスト教との関わりについて大胆に自分の見解を述べていて60年近く経た今も決して古くない。
◆学校では、それでも日本の文学者として、夏目漱石、芥川龍之介や幸田露伴や森鴎外、川端康成などを読ませるわけでしょう。人が生きてきたそのベースを本来教えるべきなのに「神」に触れる言葉がないがために技巧だけに(知識だけに)終わってしまわざるを得ない。それで「主体的に考える」などが改めて指導要領に加えられても、困難至極というものではないだろうか。それをカバーするために「道徳」教科の復活は心の芯までは変えられないだろう。2017年の今日においても子供たちに教育勅語の暗唱させていたとう驚きの学園が問題を起こしていたが、そいうベースがないこの国のそれが実態。(※余談・・・現代は、流行作家の村上春樹などがノーベル文学賞を貰えるかどうかなど言われているが、貰えるかの話が出てくるのは翻訳されているかどうか、その数、あるいは国内に推薦する専門家がいるなどだが、僕の意見、ある条件を見たさない限り彼は貰えないというのが今のところの僕の意見です。数年前のある新聞記事を読んで彼は貰えないと思った。)
◆それでは、佐古の昭和の文学の問題から抜粋します(改めて書くがこれは1958年初版の文章です。教育勅語の暗唱の学園に入れてなんとも思わない親がいるということは、この内容は古くないということです。
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〔・・・・〕「自我」という原理が、ヨーロッパ的世界でもっていた意義と、ヨーロッパ的近代を移入のかたちで自己の中にとりいれた私たちの近代での意義とは、これはまったく異質的だったので、そこのところを無雑作に混同するところから、実は私たちの現代のいろいろな問題が出てきているのだということを、根本的に考えなおしてみることが大切なのである。わたしたちはつねにばくぜんとそういうことに気づいていたのであって、ヨーロッパ世界での近代的ヒューマニズムの背景にキリスト教がげんぜんと横たわっているということは、およそヨーロッパを論じる人なら誰しもが知っていたのである。知っていながら、じつはその背景にあるキリスト教との深い関連ということをきりはなして、ヨーロッパ的近代というものを私たちは移入してきたのである。・・・・続く 
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