marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その3)坂口安吾と矢田津世子(と僕なりの”文学論”)

2022-08-02 13:03:01 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 おい、おれのまともな写真のことも書いてくれ、との導きか県立図書館に涼みにいくと、カウンターに中原中也記念館紹介のポケットカレンダーがおかれ、その中に坂口安吾の写真が載っていた・・・。で、掲載させていただく。

安吾は新潟出身なので、”安吾 風の館” というの文学館がある。館の女性に電話で安吾が片思いだった矢田津世子からのお手紙か葉書などあるものでしょうか、とお伺いしたところ、秋田ににある矢田津世子の文学資料館のこと「ええ、知っておりますよ。」と。でも、津世子の手紙(痕跡)は、丁寧に「当館にはありません。」との返答だった。

昔の文学者というか、小説家はよく勉強していたのだな、と、いや、それは今でも同じなのだろうけれど、どの国の作家もか、といえば曲がりなりにも僕は理系の方なので、さっぱり読んでもいないのだが、おまけにシェアーできないようなつまらない考え方に向いていくのでその作品の中で楽しむ、というようなことは殆ど無い。そんなわずかな読書から、著者の書いたことから知識を得ているだけなのだな。知識については分かったようなことを言っているわけだ。

哲学や心理学などに興味あるひとは、”人がそういう考えを持つということは一体何故なのか”という思考にいくから、その内容に酔うということはますますないだろう。その時代環境に対して、作者は、何故、彼、彼女はそれを思ったのか、さらには主人公の気持ちや動きはどのように書かれているのか、などなどの方へ関心がいってしまう。情景の書き方や、心の動きなどの思わせる余韻と言えばいいいか、あくまでその視点(見方)がうまいなぁ、という具合い。

その物語に酔うというようなことはないので、頭が即物的なのかもしれんな。あくまで書かれる人であり、書く人への関心であり、その今という時間の私という位置に戻ってしまう。だから、昔、高倉健や菅原文太のように任侠の映画を見ても、肩をいからせ歩いてその余韻が日常に影響するということは、間違ってもなかった。・・・雄(オス)という生き物の覇権主義的(?)思考は、かなり動物的優位性の残りなのではないかと考えてしまうように。しかし、雌が引かれるのはこういう面でもあるのだが。

そのように言う、行動する、事件が起こる、などなど・・・それは何故か、という性格分析したり、ひいては人の造形美や性格は、いつ、どういう人が、彼のそれら作品に影響を与えているのかなどと考えてしまうのだ。時代や当時、まだ、人の考えがどのような由来が起源となっているのかなど、推測はわずかで殆ど周知されていない時代には、人が思いの言葉を文字にして公にする、しかもそれが権威あるものに認められるなどということは、大変な名誉だったことだろうけれど・・・。今は、最終その行為がお金に結びついているかどうか、収益の有無が、人の発想とその効果が現実的な収益性に求められるか、どうかでメディアは盛り上げるだろうけれど、バロメーターはそこにありそうだ。

時代の経過によって、このように一人の人の考えがブログでも、インターネットでも、多くの人が瞬時に知り、つまり人についてのあらゆることは(起動するイメージと言ったらいいか)それがどこから来るのか、というような、つまり、ひとりの人アダム、その相手イブ、その子供たち、周囲の人、その集団、社会、科学、・・・など、逆向があってもはなはだしく進展してきているわけだから、さらに進んでいけば、人のことについては誰もが、医学的にも知りえるという事実を認識せねばならず、既に、この宇宙における人の存在の意味などということまで考えざるを得なくなるであろうし、そうすれば、そのような人の舞台をすでに知っている人(宇宙人)と知らずに演技している人の差が生じてくるのではあるまいか。AIなどが進展していけば、便利さと共に人に関することにつてはかなり住みにくい社会になっていくかもしれない。実は、すでの殆どのことは知られてしまっているから・・・と言えるかもしれない。

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安吾の「堕落論」の”青春論”という項目に、こういう一行があった。

”女の人には秘密が多い。” ・・・こういう文章があると何故か、ぞくぞくするが、

評論家の小林秀雄の”Xへの手紙”にこういう文章もあったな。

”書物に線を引きながら人生を学ぼうとしていた考えを見事に壊したのは女という生き物だった。”

・・・こんなこと書くと美人の姉に怒られそうだ。・・・