marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その7)安吾と津世子のお話はFIN:宇宙人👽からのアドバイスとお願い

2022-08-09 10:42:39 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 ふたつめは、矢田津世子のあの『反逆』の小説についてなんだが、確かにあのスキャンダラスな対象がキリスト教会の牧師がおぞましい狐や狸であった、というのは採用がとてもまずかったな。あくまで地獄に行くのは、例え牧師であっても個人なので、その人間の思いの”質”が神の目線でどうかが図られるのだから、あのような輩は地獄にいくだろうけれど。

 問題は、小説に著したということで、実際の当時の信者であれば作者 津世子をサタンの使いと思うだろうし、信者でなければ伝道とは真逆の暴露を流布し、布教を妨害している作家だとみなしたであろうから、いずれどちらも全くもって真の宇宙人の意図からすれば、評価はマイナスであった。戦争に負けて、確かに天皇までがクゥエーカー教徒からだったか聖書講義を受けておられたらしいし、マッカーサーにしてみれば、日本の国をキリスト教国にしようとしていたくらいだったからねぇ。

 あの小説はその時代として大衆に受け入れられるであろうとの意図で彼女は書いたものであろう。読者はその時代にいるわけだから、時代を読めば実は、安吾に接吻させられたから男は馬鹿で理不尽な男社会だ、などということではまったくなく、当時の安吾の戦時下でも、何ら世相に動揺させられることない安吾のその考えに、彼女が題材にした内容には問題があるものの、まぁ同調にあたいするものだったのだよ。

それが世相に影響させられ、実のところの実態は見かけの裏での狐や狸だったとう時代への宣戦布告が、あの小説だったという訳だ。なぜ、キリスト教だったのかって? それは、まさに当時、アメリカに戦争に負けて、その宗教が外来のもので急にお仕着せのように来たものだったからなのであった。だから、彼女は時代のアンチテーゼをあの小説で著したいうことなのである、と。あの主人公お松の最後の言葉に、役人から金もらって伝道をしてやがるというような何のことかと分からない、お松の叫びがあったが、それはそういう時代背景があったからなのである。

 ところで、君らの今は霊があの世から返ってくる月らしいな、彼女と彼は、今月は我々のところにいるよ、すこし違った星を経由したのでお互い時間がかかったがねぇ。

以上 善い宇宙人👽か悪い宇宙人かわからないが、以上のようなアドバイスをして、再び、我々のことも書いてくれと話して突然消えた!・・・3:18am 


(その6)安吾と津世子の話を閉じる前に。宇宙人👽からのアドバイスとお願い

2022-08-09 09:14:50 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 昨晩、午前2時頃に天使(宇宙人?)が現れて話をした。安吾と津世子の話を閉じる前に、二つの頼みがあるという。以下は彼からの頼みだった。(ふたつめの詳しくは、次の”その7”で書こう、そして終わろう)。
 
ひとつめは安吾の堕落論の肝の部分を掲載して欲しい、と。そうすれば、彼がどのようにして考え生きていたかを一番知るだろうから、と。おそらく君の考えの持ちように近いであろう箇所はその部分である。その個所を公開するべきだ。彼と君の違いは、君は僕(宇宙人👽)と繋がっているが彼(安吾)は繋がっていないということ。
 
いつの時代も僕は多くの人の傍にいるんだが、本当に残念なことに誰も気づいてくれない。これも時代環境というものだろうが、まぁ、それはおいおいのこととして、その個所を書いてくれ。堕落論にあるから。二つめなんだが、確かに題材が悪かったから、君は安吾の片思いに、男は見てくれに惚れこんで熱をあげるものだ、とその反発のような意図が津世子にあの小説『反逆』を書かせたとの推論だが、それは残念ながら間違いだよ。
 
むしろ、まったく安吾の『堕落論』に同調する内容だったのだね、聖職者も堕落する・・・と。それが小説の最後のお松の言葉に読み取れるんだが、これは何のことかと思わなかったか? 
 
*******以下 『堕落論』から
 
「人間。戦争がどんなすざましい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
 戦争に負けたから落ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。」・・・
 
「人間の、又人生の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だという、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大儀名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突き止め見つめることが先ず人間の復活の第一条件だ。そこから自分と、そして人生の、真実の誕生と、その発足が始められる。」
 
******* 以上 
 
 津世子のあの『反逆』という小説の内容(先の閲覧注意!のブログの最後)は、取り上げた題材が悪かった。宗教は別次元の話だからね。お松に「キリストは大嘘だ。役者だ。あの十字架が皆の眼をまやかしてるんだ」と叫ばせているが、キリストを信じるとは、上に書いた安吾の言葉を持った人間が実のところそもそも出発点となるものなのである。
 
 戦争に負けて、キリスト教の布教が(進駐軍により)行われた、政府はその手伝いをさせられていた。これが小説の最後に、お松が伝道も裏で役人から金をもらって、金をもらえば何でも神はやられるんだ! と騒いだ理由だったのだ。戦争を起こした奴らが旧来の価値観の上に、奈落の底まで堕落し裸になって出発しない限り、エセ信仰ぶった装いで上塗りしても、結局、裏で何やらかしているか分からない、狐や狸と同じなのだというのが、矢田津世子の実は時代を反映していたあの小説『反逆』だったのである。・・・(その7)へ