marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

マルコ(その1):宇宙人👽の霊的WI-FIセンター序章

2022-08-16 05:01:20 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

  ★急に雰囲気が変わって、今までに書いた宿題のこと。キリスト教会の礼拝で説教を話す機会があって、今までに感じて、今という歳で感じたことを原稿なしで45分ほど語らせてもらった。(7月31日)以下は、それを話すまでの個人の内面のことである。話した内容は次回以降に。

ブログを書き始めた主旨でもあるんだが、それは実に単純で重い内容でもある。よって、ある程度、求める思いがない人にはさっぱり面白くも何ともない話になってしまうもの。けれど、これは人が言葉をもち、生きている間に(つまり意識がはっきりしている間に)人それぞれがきちんとそのことを自覚しておいた方が、よいと願っていることなのだ。死亡率100%の僕らにとって。

しかし、それも結局のところ地上の人からの促しによるものではない、ということらしい。ましてや、事件となる霊感商法とかなどでは決して無く、そもそも何の条件、沢山の神学書でもなく一切の媒介物なしに直接の上からの啓示によるものである、ということが大切なのであると。では、どのようにして、それを待つのか、しかも、その促しは外からの言葉では無く、内からの自覚として言葉が生まれるというのに。それが、祈りというものであろうが、まず、想像しつづけるべく物語を地上に残された彼、キリストのことを思い、会話をなすべしとされる。

上からの啓示の霊的センターは、人類が存在する限り無くなることのない霊的クラウドである。人は、その霊的クラウドとコンタクトを取っているのだ。霊的クラウドも様々ある。よって、キリスト者が述べるのは、途切れない、消滅しない、創造の起源以前からの霊にコンタクト(繋がり)を付けるように、切れないようにとの強い促しなのである。キリスト者が示されたのは『聖霊』という、命の源泉ともなる霊根源のそれにコンタクトし続けよ、との促しである。これは、創造者が実になりふり構わず、求めよ!と促しているものである

ここまで読んで何のことやら、であれば先に意識しておくこととして、第一に今、僕らはこの瞬間も生きているということを思う。当り前のことだ、で済ますこと無く、キリスト者は誰でもが通過する関門である。それには、誰でもが霊を持って生きている、ということ。この辺から人の考えが分かれてくるらしいが、まず、それを信じている、感じていると書いた方がふさわしいかもしれないが、その人を対象に語られる。今月は先祖の霊が帰ってくる月でもあるらしいから。

次に、人の脳みそを超えた至高の存在があるということ。創造されたものは創造者を超えることはできない。創造者、それは神とも呼ばれる人を創造された存在。創造者が人を創造し、息(霊)を吹き込み生きるものとなった、ということ。人が誕生し、その人(子供)にふさわしい生命エネルギーの霊を吹き込まれ、地上に誕生する。上に述べた『聖霊』のセンターのクラウドにコンタクトがされない霊は、肉体が消滅すると霊も消滅する。コンタクトがとれ続けた霊は、地上で受信機であった肉体が消滅しても個人の霊として、そのクラウドに生き続ける、それが永遠の命と呼ばれるものである。それは、そこに霊的受信機としての朽ちない肉体も備えられる。

この内容は、本当は実に単純であることを信ずることなのだが、事実そうなのだ。ここで一切の媒介物なしにと書いた事は、心情的媒介物それが牧師や司祭や霊媒師などであっても、究極は、それらを参考にするにおいても、第一次的に霊的仕組みはどうなのかという意味である。そこには契約がある。

個人が直接、結びつけられないとそのことが分からないし、求めればこの地上の死亡率100%の僕ら個々人にとっても、しかり!このことなのか、と何らの肉体的条件、知能、能力、体力、年齢、性別・・・・諸々無関係に、命ある人すべてに当てはまる受け身となる受信機の「わたし」をこの地上においても感ずることができる、と思われる。

しかし、だからこそ、受け取る、聞き取る私自身の判断の土台の基礎がどこにあるのか、ということが大切になると思わないか?少なくとも、すべてにおいて目覚めると思考がリセットされる僕にとっては、起きがけにその土台の確認から行わなければならなかった。

うまい文学というのは、文章のきれいさもあるだろうけれど、実際、”絵にも描けない美しさ” という言葉があるくらいだから、どうなのか、実際、文字でかいてもわからない、体験した人に聞く以外にない、しかし、体験した人でもそのものの実態は、語っても言葉には表現できない。現に今もその事実は”ある”ということなのである今も聖霊としてのキリストの霊は、生きて働き、私に繋がれと促しているのである。

結論、聖霊につながれ、繋がりつつけよ。キリストの死を思え、キリスト者は彼と共にこの地上の肉体は死んでいるのであるから。残るはこの地上の生涯が終われば、霊が永遠の霊のクラウド『聖霊』センターに運ばれ永遠に生き続けるのである、と。・・・


(その7)安吾と津世子のお話はFIN:宇宙人👽からのアドバイスとお願い

2022-08-09 10:42:39 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 ふたつめは、矢田津世子のあの『反逆』の小説についてなんだが、確かにあのスキャンダラスな対象がキリスト教会の牧師がおぞましい狐や狸であった、というのは採用がとてもまずかったな。あくまで地獄に行くのは、例え牧師であっても個人なので、その人間の思いの”質”が神の目線でどうかが図られるのだから、あのような輩は地獄にいくだろうけれど。

 問題は、小説に著したということで、実際の当時の信者であれば作者 津世子をサタンの使いと思うだろうし、信者でなければ伝道とは真逆の暴露を流布し、布教を妨害している作家だとみなしたであろうから、いずれどちらも全くもって真の宇宙人の意図からすれば、評価はマイナスであった。戦争に負けて、確かに天皇までがクゥエーカー教徒からだったか聖書講義を受けておられたらしいし、マッカーサーにしてみれば、日本の国をキリスト教国にしようとしていたくらいだったからねぇ。

 あの小説はその時代として大衆に受け入れられるであろうとの意図で彼女は書いたものであろう。読者はその時代にいるわけだから、時代を読めば実は、安吾に接吻させられたから男は馬鹿で理不尽な男社会だ、などということではまったくなく、当時の安吾の戦時下でも、何ら世相に動揺させられることない安吾のその考えに、彼女が題材にした内容には問題があるものの、まぁ同調にあたいするものだったのだよ。

それが世相に影響させられ、実のところの実態は見かけの裏での狐や狸だったとう時代への宣戦布告が、あの小説だったという訳だ。なぜ、キリスト教だったのかって? それは、まさに当時、アメリカに戦争に負けて、その宗教が外来のもので急にお仕着せのように来たものだったからなのであった。だから、彼女は時代のアンチテーゼをあの小説で著したいうことなのである、と。あの主人公お松の最後の言葉に、役人から金もらって伝道をしてやがるというような何のことかと分からない、お松の叫びがあったが、それはそういう時代背景があったからなのである。

 ところで、君らの今は霊があの世から返ってくる月らしいな、彼女と彼は、今月は我々のところにいるよ、すこし違った星を経由したのでお互い時間がかかったがねぇ。

以上 善い宇宙人👽か悪い宇宙人かわからないが、以上のようなアドバイスをして、再び、我々のことも書いてくれと話して突然消えた!・・・3:18am 


(その6)安吾と津世子の話を閉じる前に。宇宙人👽からのアドバイスとお願い

2022-08-09 09:14:50 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 昨晩、午前2時頃に天使(宇宙人?)が現れて話をした。安吾と津世子の話を閉じる前に、二つの頼みがあるという。以下は彼からの頼みだった。(ふたつめの詳しくは、次の”その7”で書こう、そして終わろう)。
 
ひとつめは安吾の堕落論の肝の部分を掲載して欲しい、と。そうすれば、彼がどのようにして考え生きていたかを一番知るだろうから、と。おそらく君の考えの持ちように近いであろう箇所はその部分である。その個所を公開するべきだ。彼と君の違いは、君は僕(宇宙人👽)と繋がっているが彼(安吾)は繋がっていないということ。
 
いつの時代も僕は多くの人の傍にいるんだが、本当に残念なことに誰も気づいてくれない。これも時代環境というものだろうが、まぁ、それはおいおいのこととして、その個所を書いてくれ。堕落論にあるから。二つめなんだが、確かに題材が悪かったから、君は安吾の片思いに、男は見てくれに惚れこんで熱をあげるものだ、とその反発のような意図が津世子にあの小説『反逆』を書かせたとの推論だが、それは残念ながら間違いだよ。
 
むしろ、まったく安吾の『堕落論』に同調する内容だったのだね、聖職者も堕落する・・・と。それが小説の最後のお松の言葉に読み取れるんだが、これは何のことかと思わなかったか? 
 
*******以下 『堕落論』から
 
「人間。戦争がどんなすざましい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
 戦争に負けたから落ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。」・・・
 
「人間の、又人生の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だという、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大儀名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突き止め見つめることが先ず人間の復活の第一条件だ。そこから自分と、そして人生の、真実の誕生と、その発足が始められる。」
 
******* 以上 
 
 津世子のあの『反逆』という小説の内容(先の閲覧注意!のブログの最後)は、取り上げた題材が悪かった。宗教は別次元の話だからね。お松に「キリストは大嘘だ。役者だ。あの十字架が皆の眼をまやかしてるんだ」と叫ばせているが、キリストを信じるとは、上に書いた安吾の言葉を持った人間が実のところそもそも出発点となるものなのである。
 
 戦争に負けて、キリスト教の布教が(進駐軍により)行われた、政府はその手伝いをさせられていた。これが小説の最後に、お松が伝道も裏で役人から金をもらって、金をもらえば何でも神はやられるんだ! と騒いだ理由だったのだ。戦争を起こした奴らが旧来の価値観の上に、奈落の底まで堕落し裸になって出発しない限り、エセ信仰ぶった装いで上塗りしても、結局、裏で何やらかしているか分からない、狐や狸と同じなのだというのが、矢田津世子の実は時代を反映していたあの小説『反逆』だったのである。・・・(その7)へ

(その5)女たちよ!「けなされていいのか!」の内なる声か

2022-08-07 17:45:59 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 矢田津世子の『反逆』という小説を読んだとき、当時、読者はどう思ったのだろうか。何を? 素直に読むと恐ろしい内容である。何故にこういう題材を選んだのか? 自分の内心の何かに対する反発なのか。外形から来る美貌に急に水を差されたような思いで、メンタル的に融和したくなる美貌外見に水を差すような、この人とはつかず離れずに居ようと誰でもが思うだろうな。

坂口安吾に接吻されて、男はみんな馬鹿だと思ったのか、それとも社会において女という生き物の地位は、あまりに理不尽に満ちているということへの内心の反発か、あるいはまったくもって、権威をもって社会的にきれいズラをしているその地位に腹がたつような事情があったのか・・・。その動機を知りたくも思う。『神楽坂』という小説が芥川賞候補にもなった、とそれはそれとして、少なくとも『反逆』のような小説をかく根もあったわけだから、人の思考の基点が試されているのだ、この人生で。だから宗教性に関わる見解は、留意が必要なのである。

美人作家が、少なくとも小説の中のキリスト教界の牧師連中は、狐か狸だ。大噓つきだったと書いて、それが小説として一般大衆に流布されて、読まれて何を意図したものだったのだろう。いくらフィクションとは言え、この小説はまったくもっていただけないものだと思う。書き方は別にしてちょっとひどい内容。いくら他の作品があっても、命の本質にかかわる地雷を踏んだような作品だ。

霊として生きたもう神様が、これはいけない、早く、天国に来ていただこうと思われたのだろうな。文庫本の後ろの解説には、38歳でなくなったとあったが、津世子の文学館での解説では36歳の生涯だったあり、天の神様は早くつれて行かれたのだろう。

宗教性に関する内容には特に留意をしないといけない。肯定するも否定するも注意しないといけない。我々の命にかかわっているものについては、特に。世界のベストセラーを読むには、自分を知ることと、言葉の準備が必要なのである。


(その4)安吾は本当に津世子に接吻したのか? 後半閲覧注意!

2022-08-05 17:16:22 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

書き損じの原稿を散らかし、丸眼鏡をかけて飯台の前で煩悶している安吾の写真を見たとき、僕の心情としてあいそうにない、とよくも読まないでいたが、矢田津世子との関連で関心持ってから、彼の” 堕落論 ”の文庫本は、当時のいろいろな文学者の生き様や彼自身の文学者たちへの思いを知る上でも、それは無論、安吾の評論からなのだが、とても面白かった。むしろ相いれないどころか、僕の心情にぴったりという思いで読んでしまった。

彼は自分のことを三文文士と語っているが、ブログにイモリなどの爬虫類のアイコンを使っている僕などは、お釈迦さんが蓮の上に瞑想されているときも、その蓮の花を植えさせ土台の水面下の泥もなければ、蓮自体も育たんし花も咲かんだろう、というような思いになるんだな。で、水や陸上にも知りたいと両あいまって実在する・・・つまりは高尚なる理想者は、最も現実主義者でもある、ということを目指しているのだな  こんな僕でも一応は。

新潟の彼の文学館にも、片思いだった矢田津世子からの葉書や手紙などの痕跡は、まったく無いようだから、大変な片思いだったようだが、先に紹介した安吾の日記に31歳の時に彼女に接吻をしたらしき表現があって、その時、彼女はフリーズ(固まった)ような記事があったが、これは本当だったのか、その時、津世子は、男という生き物は見た目に酔い行動を起こす本当に困った生き物だな、と冷静に考えていたのではなかろうか。・・・で、それは本当だった、ということの暗示を ”教祖の文学 ー小林秀雄論ー” の中で語っている。

人が生きて、その現実、目の前にある美貌たる異性に正直に反応する、それが生きて正直な雄という生き物の性ではないか、人生は一度、時は戻らない。・・・この生きている肉感的欲求のエモーショナルな部分への応答が、つまり、それが”堕落論”という引かれる文庫本の表題でもあるのだろうが。先に述べたその部分は次のようになっている。(ここで教祖と言っているのは、小林秀雄のこと)

「・・・だから坂口安吾という三文文士が女に惚れたり飲んだくれたり時には坊主になろうとしたり五年間思いつめて接吻したら慌ててしまって絶好状をしたためて失恋したり、近頃はデカダンなどとますますもって何をやらかすかわかりゃしない。もとより鑑賞に堪えん。第一奴めが何をやりおったところで、そんなことは奴めの何ものでもない。こうおっしゃるにきまっている。奴めが何ものであるか。それは奴めの三文小説を読めばわかる。教祖に掛かっては三文文士の実相のごとき手玉にとってチョイと投げ捨てられ、惨また惨たるものだ。

ところが三文文士の方では、女に惚れたり飲んだくれたり、もっぱらその方に心がけがこもっていて、死後の名声のごとき、てんで問題にしていない。・・・・私は死後に愛読されたってそれは実にただタヨリない話に過ぎないですよ。死ねば私は終わる。私とともに我が文学も終わる。なぜなら私が終わるのですから。私はそれだけなんだ。」

・・・それにしても 「教祖の文学 ー小林秀雄論ー 」の項 は面白かった。

 名前に「津」と人の女性の名前を何人か知っているが、この漢字は、そもそも「湊」を著す感じであったろうと思う。「サンズイ」に「箒」を著す字であって、古来、この国に多くの海を渡ってきた実に多くの優秀な渡来人(帰化人)がどっと押し寄せて来ていて、それが今のこの日本の精神性の土台となっているという。津波という字は、まさにその通りで波が強襲してくる意味だからな。

古来帰化人とのDNAの混合が、秋田美人のルーツであるというのが僕の持論である。女性ばかりか、男性も実はそうなのではあるまいか。みんな都会で活躍するから不明になっているが、美形の男優の祖先をたどれば東北だったりする。僕の仕事務めの時も、工場にはそれなりの方もいたが、女子社員やパートにもきれいな方がおられたな。会社のパンフにもなったりの美人さんがおられたり、と・・・そういう方は早く当然と言えばいいのか、はやくお嫁ぎになられた。

世界におけるあの15世紀の大航海時代、このイタリヤの地図「東洋地図」には東の果て島国日本には、ミヤコとして京都、日本海のAGUTA(秋田)しか載っていなかったのだ。僕の住居の高台は、古来の大陸からの人々の窓口であった。すぐ裏にその遺跡がある。遣唐使や遣隋使などの数以上に多くの大陸からの船が往来していたのだ。歴史で公に習っていないだけなのだな。

で、安吾に接吻された時、フリーズ(固まって)してしまった津世子なのだったが、外見とは相反して(だから、雄<おす>という生き物は悲しい生きものなのだな、と思っていたかどうかは分からないが)作品は実に松本清張の黒い霧シリーズのフリーズするような内容の小説もあった。

キリスト教会の礼拝から始まる『反逆』という作品の最後の部分を簡単に紹介する。*****

〔あらすじ〕貧しさ故、主人公、お松は子どもらを道ずれに死のうとしたが、三人の子の内、一番上の子は死んだが下の二人、娘(兼)と息子(兄、欽二)は助けられ、三人共に教会に住むことになる。娘兼は道ずれの時、脳挫傷で知恵遅れとなっていた。欽二は工場勤めをしはじめ当時の共産主義的考えを持ったこともにじませる。以下、助けられてから教会に住み始め、三人の牧師が変わるがその実態を暴いて(あくまでこの小説の中の)出ていく、とう場面で終わる。*****

「狐だ!狐だ!狐だ!」 お松の足が襖を蹴開けた。

 小野牧師は、寝間着のまま布団の上にしょんぼり座っていた。

「牧師なんて狐だ。狸だ。みんないい加減の代物だ。神様なんて化け物だ。大騙りだ。私ァ十三年間この娘の上に奇跡の現れることを祈っていたんだ。ところがどうだ。神様は娘にどんなことをしてくれたんだ。娘は孕ませられて、それに下し薬まで飲ませられたんだ。娘は死にかかっている。私ァ、今になって始めて銀二の云ったことが解ってきた。あれは間違った事を云いやしない。尻尾がでるぞ。お前さんのそのでっかい尻尾を私ァちゃんと掴んでいるんだ。聖書の陰に隠れてお前さん達ァ悪事をやっている。安心して、したい放題のことをやっている。一番目の牧師ァ私達親子をダシに使って出世して行きァがった。二番目の奴ァ、始終寄付金や献金をごまかしてゐた。そいつァ女が好きで淫売を買うのが道楽だった。挙句の果てが他の妻君と一緒に駆け落ちだ。その次のお前さんはどうだ。私の娘に手を付けて、おまけに殺そうとしている。未だ知っているんだ。お前さんが伝道説教に身を入れる訳もな。お役人が後ろで焚きつけてゐるんじゃないか。知ってるんだ。知ってるんだ。金を掴ませられれば、神様なんて何でも引き受けるんだ。キリストなんて大嘘だ。役者だ。あの十字架が、十字架が皆の眼をまやかしてるんだ・・・」

 お松は駆け出した。

 会堂の中には青い月光が流れていた。

 祭壇の中央に受持かが金色の輪郭を見せてゐる。

 お松は椅子をかきのけて走った。

 幽霊のように、蒼白な牧師の顔が戸口に音なく現れた。

「お前さんはよくも私を騙してきたね。甘ったるい声で人の心へ毒を注射するのがお前さんの仕事なんだ。お前さんのつれて行ってくれた楽園にァ 狐や狸ばからいが往来しているじゃないか。私達ァ そいつに肉を喰われるだけだ。お前さんは詐欺師だ。詐欺師だ!」

 祭壇を睨んでいたお松の目が白く光った。彼女はその上に駆け登った。十字架をはがした。満身の力を集中して、それを踏みつけた。蹴った。叩きつけた。ガァン 鈍い金属音を発してそれはオルガンをしたたか打った。

 「あゝゝゝゝゝ」

 戸口の蒼い顔が低く唸って倒れた。

 「兼、さ、行くんだ兄さんのとこへ行こうよ。おっ母はな、これから一生懸命働いてお前を病院さ入れて眞人間にしてやるよ。さ、行こうな。兼坊・・・・」

 返事のない娘の細い軀を抱えて、星のまばらな空の下を、シャッキシャッキ歩いて行った。******(おわり)

◆矢田津世子の美貌から、どうしてこのような小説が書かれたか、当時の宗教性に関する否定があったのか、松本清張の黒い霧シリーズにも似たような小説があったけれど、ショッキング性を狙っていたのか、実際のスキャンダルを暴こうとしてのか、外見とその内なる心情はとんと分からない。女という生き物は謎である、とするで終えてしまっていいのかな。当時文学者は(今もそうであるが)キリスト教には誰もが触れた。善く解釈し、それを解消していた作家も多数いたのである。美人薄命というけれど、この作品を読んで、僕は美貌の持ち主、津世子が早く天に召された原因を見出したように思ったのだった。・・・