のびたとブレイク

生き生きと第三の人生を歩んでいます
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戦後を生き抜いた施設の皆さんと共通の心のアルバム

2013年06月11日 09時29分47秒 | ボランティア
いつのことだか思い出してご覧 あんなこと こんなこと有ったでしょう
幼稚園などで歌われる 想い出のアルバムと言う歌の一節である
子どもへの語りかけで 楽しかった何年間を振り返るのである

施設への音楽訪問で 私は いつも皆さんへ語りかける
こんな時代が有りましたね こんなことも有ったねと言う
皆さんと同じ目線にたった 共通することを語り 思い出させる

そうだよね うん あるある あははと当時をもいだし笑ったりする
幸い私は 入所やディケアに通う方たちと大して年齢は変わらない
時には90歳でも 年齢が近いことにしてしまうこともあるが・・・・

サッカーの試合のあとの群集に心ある説得をしたDJポリスにも どこか似ている
心を開いたり 受け容れるのには 自身が相手と同じ目線に入ることである
戦後 食糧難で餓死寸前の私の生活も 今となっては こうして語り共感を得る

懐メロも良く歌ってもらうが 童謡唱歌も 心に刻まれた曲であり好まれる
特に 鐘の鳴る丘 お山の杉の子 は 私の年代では皆が知っている曲だ
戦後 荒廃した風土の中で 明るい曲としてラジオから流れてきた

 
 作曲は福島出身 古関裕而 六甲おろしも 君の名はも書いた 

もっとも私の家は貧しかったから そのラジオも無いし 電気 水道も無い
信州の山奥のその奥に 小さい林を開墾して 僅かな畑作で食いつないでいた
蛙も蛇もつつじも桑の葉も こおろぎまで食べたが 冬は何も無かった

先生に弁当を分けて貰ったことがあるが 別に哀しいとも辛いとも思わなかった
雪に醤油を掛けて 空腹を満たしたこともある
でも こんな生活が有って 現在は強靭な身体を 神様に授かっているのだ

 
菊田一夫がモデルとした奥州市 江刺

疎開の話をすると 高齢者はうんうんと頷くが 若いものでは今は死語である
お山の杉の子の作曲者は 青梅の方に疎開して 曲想を練った
作詞の女性は 徳島県宍喰の方で 周辺の山には 杉林も多かっただろう


      青梅 ゆずの里にある歌碑

戦中の国威発揚のための作詞であるが 戦後は後半部分など多くカットされた
終戦直後 私の小学校では 山へ植林に行き 杉を植えたものである
将来 建材として国の為に役に立つとされたが 今は公害で伐採されたりしている

 

鐘の鳴る丘も 占領軍の意向により こうしたドラマの制作を命令された
しかし 善悪は別として 国民の圧倒的支持を受け 今の聴取率なら90㌫である
ドラマの背景の如く 浮浪児が 巷には溢れていたのである

復員してきた兄が 浮浪児の弟を見つけ 信州に保護施設を作る話である
戦争で親を亡くした子ども達は  心まで荒んでいるが 徐々に明るくなって行く
作者の菊田一夫自身も 親に棄てられた過去を持っているのである


ドラマに感銘 品川博が菊田一夫の支援もあって作った群馬・前橋の少年の家

私も この頃は鼻たれ小僧であった 私だけでない みんな 鼻が垂れていた
すっと流れる鼻は 着ているシャツなどにこすり付けた
こんな話でも みんな経験してきたり見ているから 笑って聞いている

白い花の咲く頃の歌詞にある お下げ髪 の話しもする
殆ど女の子は 昔 お下げ髪で 3つ編みだった
そうだよねと おばあちゃんが 相槌を打つ

夏の思い出の曲は 水芭蕉咲く尾瀬を描いて書いた曲だ
この曲も作者の女性は 買出しにはるか群馬県 片品村に行った時の発想だ
買出しなんて 現在には考えられないことだが 米や食糧を求めて必死だった

当時を身を持って知り 一緒に想い出し その上で歌を歌う
これが施設への音楽訪問で 年の功の私が出来ることである
昨日も 皆さんの笑顔が多く 一つ一つの話に頷いたり笑顔を浮かべていた

       最後までお読みくださいまして有難うございました 
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