その頃、神奈川地域で暴れていた愚連隊グループはいくつかあったが、その中でも出口辰夫(通称モロッコの辰)、林喜一郎、吉水金吾、そして井上喜人をリーダーとする四グループが派手な動きをしていた。
戦後の焼け跡に残された、いわば呆然自失状態の都会の若者達は、有り余るエネルギーのはけ口を求めて、そんなリーダーの周りに集まってきた。各グループは次第に勢力を増し、リーダーの四人はやがて「横浜愚連隊四天王」と呼ばれるようになった。
モロッコ辰については、その世界では知らない人はいないであろう。かつて柳葉敏郎が主演した「横浜愚連隊物語」という映画の中で、彼がこのモロッコ辰を演じて話題になった。
そのモロッコ辰と肩を並べて、横浜の街を闊歩していたのが林喜一郎である。林グループの縄張りは、伊勢佐木町界隈であり、ある意味では最も目立った存在であったかもしれない。
林喜一郎は、戦時中、兵役で満州へ渡った。その後、大陸(華中)を転戦し、昭和20年の終戦時、彼は上海で八路軍(中国国民革命軍第八路軍)に捕らえられ、その後捕虜生活を送る。
昭和22年に帰国した林は、愚連隊となって伊勢佐木町界隈で暴れまわるようになった。
その頃の彼の有名なエピソードとして次のような話が残っている。
『伊勢佐木町で「一六縁日」が開催された時、林喜一郎は、的屋(テキヤ)と喧嘩になった。林は縁日を潰すため、境内にあった大事なお地蔵様に体当たりし、そのお地蔵様を撥ね飛ばした。結果、縁日は大混乱となった。
その後、横浜市野毛の的屋・日野盛蔵が、地元を仕切っているヤクザの鶴岡政治郎総長(鶴岡組)に、その件を報告し、林が暴れるのを注意するように頼んだ。鶴岡総長は、林に、「一六縁日」での行為を咎めたが、林は鶴岡政次郎の注意を無視し、行動を改めることはなかった』
その件以来、林は関東のヤクザ(稲川組など)に一目置かれる存在になったという。
兵隊として満州に渡り、敗戦によって毛沢東率いる八路軍の捕虜となった林は、生きて日本に帰れると思っていなかったのではないか。そんな経験をした男にとって、世の中に怖いものなどなかったのであろう。お地蔵であろうと仏像であろうと、何でも倒してみせたであろう。
林はしかし、そんなふうに暴れていたばかりではない。夜のビジネスもやっていた。
進駐軍相手の「パンパンハウス」(売春宿)である。こっちの方はかなりの稼ぎになった。
しかし、このパンパンハウスの経営は、四天王の一人・吉水金吾と、後にその縄張りを争って騒動を起こすことになる。
そんな林の下で、春樹は三番弟子として動いていた。
続く・・・・・・・