80トンの愛友丸は貨物船としては小さい方である。
大きな波が来ると、その船体は大きく揺らいだ。
今回はかなりの時化のようだ。
金華山沖まで来たあたりで、波浪は更に激しくなった。
強い向かい風になると、船はほとんど進まない。
機関長の松さんは、エンジンを全開にして全速力で船を走らせた。
船長も荒波を凝視して必死に舵を握る。
やがて船は三陸沖をヨロヨロと乗り越え、津軽海峡にさしかかった。
竜飛岬では風が「ゴウゴウ」と吠えている。
機関長が操舵室に飛び込んできた。
「船長! もうエンジンが限界です。 これ以上は無理です。 近くの入り江に船を入れて下さい!」
「分かった!」
船長は舵を大きく左に切り、下北半島の入り江を目指した。
愛友丸が下北半島沖で立ち往生していたこの時から数年後の1954年(昭和29年)9月26日、台風15号が津軽海峡周辺を通過した。この時、青函連絡船として運行されていた洞爺丸が暴風と高波により転覆・沈没し、死者・行方不明合わせて1155人という、日本海難史上かつてない大惨事を起こした。
この津軽海峡での洞爺丸事故を題材にした「飢餓海峡」という推理小説を水上勉が書き、後に三国連太郎、高倉健、左幸子らが出演して、同名の映画が作成され話題となった。
津軽海峡は天候により、また潮の流れによってその姿を大きく変える。
船乗りにとって、海峡は要注意の航路である。
愛友丸はなんとか入り江に入ることができた。
そこで一晩待機し、翌朝、天候状況を見て船を出すこととなった。
船長はじめ、船の乗組員は疲労困憊である。
耕一は健さんらと共に、大きく揺れる船内で、浸水してきた海水をバケツでくみ出す作業を数時間続けていた。
板長が作ってくれた握り飯を食べると、みんな、作業着のまま寝床に倒れ、そのまま眠りこけた。
しかし、そんな凄い時化の航海は初めての経験であった耕一は、船酔いで気分が悪く、握り飯も口に入らず、うなされながら寝むりについた。
翌朝、天候は回復し、時化は収まっていた。
下北半島の小さな入り江から出た愛友丸は、波の静まった穏やかな津軽海峡を、朝陽を浴びながら渡り始めた。
上野発の夜行列車降りた時から・・・♪
どこからか、「津軽海峡冬景色」の歌が聞こえてきた。
続く・・・・・・