時間はまだ昼前だ。
真金町の春子の所へ行くには早過ぎる。
菊の玄関に暖簾(のれん)が掛るのは夕方だからだ。
走る市電の中で、耕一は《さて、どこで時間をつぶそうか》と考えた。
耕一は野毛へ行って、昼飯を食べることにした。
当時、横浜の闇市では野毛界隈が一番賑やかであった。
中でも桜川沿いのクジラ通りが最近評判である。そこに立ち並ぶ屋台でクジラカツが食べれるのだ。
《あれを食って精を付けてから菊へ行こう》
そう決めた耕一は、野毛の停留所で降りると、桜川のクジラカツ屋台を探しながら歩き始めた。
伊勢佐木町の繁華街も賑やかだったが、この野毛界隈の闇市もとても活気があり、雑多な人々が群がっていた。
こそ泥をして手に入れた盗品を、コソコソと露天に持ち込む者もいたが、仕事にあぶれた港湾関係の日雇い労働者や失業者が、ブラブラと野毛の闇市にやってきた。
そんな暇な男達の中には、ヒロポンに手を出してヒロポン中毒になる輩(やから)も多かった。
そのような、フラフラと野毛にやってくる連中を、「野毛の風太郎(ぷーたろう)」と世間の人は呼んでいた。
闇市をフラフラと歩く耕一も、周りの連中からは「野毛の風太郎」と見られていたであろう。
《それで良いのだ。逃亡者となって姿を消すには、この連中の中に溶け込んで行けばいいのだ》
耕一は、できるだけ目立たないように、闇市の雑踏の中に入り込んで行った。
クジラカツは結構旨かった。闇市の屋台料理にしては上出来な方であろう。
耕一がアツアツのクジラをほうばって食べている隣で、二人組の男が話をしていた。
「根岸の魚屋の小娘の歌がえらく評判だな」
「あー、あの小生意気な小娘か。なんちゅう名前だったっけ?」
「美空ひばり、て言うらしいぜ。俺はあの娘(こ)の歌を、杉田劇場で生(なま)で一度聴いたことがあるが、あれは化けもんだぜ。何しろ大人のプロの歌手よりうまく大人の歌を唄うんだからな」
「ほんとかよ。まだ10歳かそこらだろ?」
「ああ、古賀政男とかいう偉い作曲家の先生も度肝を抜かれたらしいぜ」
「へぇーーーー」
「しかもあの娘(こ)は歌がうまいだけじゃないぜ。舞台度胸も大人顔負けに堂々としてるのよ」
「そんなに凄いのか。今度おれも観にいってみようかな・・・」
「なんでも、近いうちにマッカーサー劇場(横浜国際劇場)で唄うらしいぜ」
耕一の隣で、二人の男がそんな話をしていた。
《そんな凄い女の子が出てきたのか。日本も変われば変わったもんだ》
耕一は、自分よりはるかに若い女の子が、大観衆を前にした桧(ひのき)舞台で、臆することなく堂々と大人顔負けの歌を唄っているということに、大きな感動を覚えた。
《その子は、まさに新しい日本の、新しい時代の申し子ではないか!》
新しい時代の申し子のような、そんな新人歌手出現の話を聞いている内に、自分の身体の中の熱い血潮が音を立てて流れ始めたような気がした。
耕一は、初めて食べるクジラカツをゆっくりと噛み締めながら、その味をじっくりと味わっていた。
続く・・・・・・・。