糸井ひろしの気まぐれ日記

日本共産党群馬県西毛地区委員会役員の日々のあれこれ

人の個性ってなんでしょ

2013-07-18 | 雑想

 昨日は「学校評議員会」なるものの会議に出席しました。PTAの会長はこの「学校評議員」に自動的になるのだそうで、一昨年前に会長をやったときにもやっぱりやりました。

 要するに、県下の高校がやることになっているのだそうで、「羅針盤」を持ち、それを裏付ける「目標」等をもって、それが達成できたかどうかを、地域や教職員、PTAなどが「評価」するもののようです。

 

 さて、それもそれなんですが、この集りの中で、他の出席者の発言に、妙に気になったことがあったので、ちょっと考えたくなりました。

 「高校を出て社会に出る子は特に、社会人としてのルールやマナーを身につけてほしい」「家庭の親では不十分。学校でそういった指導をしてほしい」という言葉でした。

 ここでのルールやマナーというのは、社会性という言葉であらわせるかなと思います。「慣習」とも言えるかもしれません。

 

 さて、うちの子が通う高校は定時制です。いろんな事情を抱えながら入学した子が多く、進学をめざす子ももちろんいますが、就職希望率も、全日制普通科高校より高いかと思います。

 

 最近の企業は「コミュニケーション力」を求めていると言います。そういう風潮のなか、ことさらに「ルール」や「マナー」が強調されているように思うのですが、それって、どうなんでしょう?

 

 内気で自分のことが上手に表現できない人は、もう就職は無理?型にはまった物言いや立ち居振る舞いができなければNG?

 

 「いや、そこまでは...」と多くの方が思うかもしれませんが、面接の指導などを見ると、きっとそう感じますよ。就職を希望している人びとにとって、面接とは、「人間そのものを量られる」ほどの重要性を持っています。なにしろ、面接へたどりつくことすら、今の社会は大変ですから。

 

 でも、じゃあ面接にすらたどり着けなかった人びとは人間として何かが足りないのでしょうか?面接でちょっとした言葉遣いや所作で失敗した人は、何か欠けてるのでしょうか?

 

 人を不快にさせないのは、ルールやマナーを完璧に身につけることではないと思うのですが。そして、人を不快にさせないためにどうすればいいかは、社会性が育つ中で身につくものではないですかね?誰かのお仕着せでルールやマナーが形成されていくものでもないと思います。

 

 それができるためには、社会がもっと柔軟で、深い懐を持っていなければならないんですが、残念ながら今はそうではありません。誰かのお仕着せ的な価値観によって社会の常識まで左右されているのが現実です。じゃあ、「今はこうだから仕方ない」のか?

 

 社会を構成している一人一人が、自ら持っている力をきちんと発揮することで、社会のあり方なんて変えられます。絶対不変の社会なんてありえません。

 私は「だれもがいていい社会」が好きです。

 

 

 

 

 そんな話をカミさんにしたら、「あなたはそのあたり、突き抜けちゃったもんね」と言われました。