目の前が開けてきます。
稚児ヶ淵。
稚児ヶ淵は海水によって削られて比較的平坦になった岩盤が隆起したことによって生まれました。その昔、白菊という名前の稚児がここから身を投げたという話が「稚児ヶ淵」の名前の由来となっています。稚児ヶ淵からは、広がる海と空、富士山の向こうに沈む夕日を一望することができ、その絶景から「かながわの景勝50選」にも選ばれています。また、釣りの名所としても知られており、休日は釣り人でにぎわっています。
残念ながら、海は霞んでいて対岸も見えません。
右手に芭蕉の句碑などいくつか集められています。
解説板。
芭蕉の句碑(右から2番目)は、握り飯の半面を押しつぶしたような素朴な碑型の河原石で、「潮墳」の碑と称されて観光客に親しまれています。青緑の色濃い自然石を程よく活用して「疑ふな 潮の花も 浦の春 はせを」と彫りこまれたこの句は二見ヶ丘(三重県)での作ですが、ここの自然環境に溶けあっています。
佐羽淡齊の詩碑(右から3番目)は野火で碑面が剥落していたものを4代目の子孫が再建したものです。淡齊は上州桐生の人で、大窪詩佛門下の詩人です。全国の名所旧跡を遍歴して百詩碑建立を図り、江の島の碑はその第1号として建てられました。
服部南郭(右から4番目)の詩碑は、島内では一番古い詩碑で、高さ95cm、幅35cm表に七言詩、背面に文化2年(1805年)これをこれを建立したと識語してあります。南郭は、京都に生まれ、江戸に出て、儒学者荻生徂徠の門に学び、柳沢吉保に仕え、詩文をもって知られた人です。江の島には幾度も来遊し、そのたびごとに、江の島にちなんだ詩をのこしましたが、この詩は南郭の快心の作といわれています。
疑ふ那 潮能花も 浦乃春 はせを
二見浦の夫婦岩を描いた絵の画讃。岩に砕ける潮の花の絵柄はそのまま二見が浦の爛漫の春の景色だということを疑ってはならないというのだが...
※元禄2年(1689)春の作。
※「二見浦の夫婦岩」。(「観光三重」HPより)
下りて来た石段を振り返る。
急な石段を下ります。
江の島岩屋に向かいます。「あなたの知らない江の島がここにあります。」
左手は切り立った崖。