住宅や大きな集配センターがあったり、森が続くなど変化が富んだ地域。
守屋駅からは、地元の人と会社員と。
振り返る。左手には車両基地。
「水海道(みつかいどう)」駅。
茨城県南西部にあった旧市名(水海道市)。現在は常総市(じょうそうし)の南部を占める地域。・・・
旧地名の由来は諸説あるが、16世紀ころの文書には「水かへと」とあり、水とのかかわりが深い。鬼怒(きぬ)川と小貝(こかい)川が近接する沖積低地とローム層の洪積台地よりなる。関東鉄道常総線と国道294号、354号が通じる。隣接するつくばみらい市にある常磐(じょうばん)自動車道谷和原インターチェンジが近い。古くから開かれ、古代には平将門(まさかど)の乱があり、中世には下妻城主多賀谷(たがや)氏の勢力が及び、近世は天領や古河(こが)藩領となり、また小貝川の淵頭河岸(ふちがしらかし)、鬼怒川の水海道河岸、三坂(みさか)河岸など水運で栄えた。米や野菜、ナシ、イチゴなどの農業がおもなほか、坂手工業団地、内守谷工業団地の造成で機械、金属工業や食品、紙製品、家具類などの工業も発達した。近年、東京の近郊住宅地化している。
怪談『累ヶ淵(かさねがふち)』で知られる累の墓のある法蔵寺、国指定重要文化財の坂野家住宅、県指定文化財を多く所蔵する大生郷(おおのごう)天満宮などがある。[櫻井明俊](「日本大百科全書(ニッポニカ」より)
※怪談『累ヶ淵(かさねがふち)』と宝蔵寺
累の物語が最初に知られるのは、元禄3年(1690年)に出版された仮名草子本『死霊解脱物語聞書』である。『聞書』によれば、慶長17年(1612年)から寛文12年(1672年)までの60年にわたって繰り広げられた実話に基づくとされている。
- 下総国岡田郡羽生村(現在の茨城県常総市羽生町)に、百姓・与右衛門(よえもん)と、その後妻・お杉の夫婦があった。お杉の連れ子である娘・助(すけ)は生まれつき顔が醜く、足が不自由であったため、与右衛門は助を嫌っていた。そして助が邪魔になった与右衛門は、助を川に投げ捨てて殺してしまう。あくる年に与右衛門とお杉は女児をもうけ、累(るい)と名づけるが、累は助に生き写しであったことから助の祟りと村人は噂し、「助がかさねて生まれてきたのだ」と「るい」ではなく「かさね」と呼ばれた。
- 両親が相次いで亡くなり独りになった累は、病気で苦しんでいた流れ者の谷五郎(やごろう)を看病し、二代目与右衛門として婿に迎える。しかし谷五郎は容姿の醜い累を疎ましく思うようになり、累を殺して別の女と一緒になる計画を立てる。正保4年8月11日(1647年)、谷五郎は家路を急ぐ累の背後に忍び寄ると、川に突き落とし残忍な方法で殺害した。
- その後、谷五郎は幾人もの後妻を娶ったが、尽く死んでしまう。6人目の後妻・きよとの間にようやく菊(きく)という名の娘が生まれた。寛文12年1月(1672年)、菊に累の怨霊がとり憑き、菊の口を借りて谷五郎の非道を語り、供養を求めて菊の体を苦しめた。近隣の飯沼にある弘経寺(ぐぎょうじ)遊獄庵に所化として滞在していた祐天上人はこのことを聞きつけ、累の解脱に成功するが、再び菊に何者かがとり憑いた。祐天上人が問いただしたところ、助という子供の霊であった。古老の話から累と助の経緯が明らかになり、祐天上人は助にも十念を授け戒名を与えて解脱させた。
法蔵寺には累を弔った墓があり、常総市の指定文化財になっている[1]。また、法蔵寺には祐天上人が解脱に用いたという数珠・累曼陀羅・木像なども保存されている。
この物語を題材にとり、四代目鶴屋南北作の『色彩間苅豆』(いろもようちょっとかりまめ)をはじめとした累物(かさねもの)と呼ばれる一群の歌舞伎作品がうまれたほか、三遊亭円朝は怪談噺『真景累ヶ淵』を作り上げた。
(この項、「Wikipedia」より)
この先、ここまでの複線から単線運転になります。
田園地帯が広がる。
右側には筑波山が見えてきます。
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