東白鬚公園。
「まといのシンボルタワー」
公園の中央にそびえるシンボルタワーは、江戸時代の火消し人足組が高く掲げた「まとい」をイメージしたもの。「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたように、町人町に家屋が密集し、ほとんどの建物が木と紙で組み立てられた江戸時代に火災はつきものでした。江戸時代の消防は、延焼防止を目的とする破壊消防を主として、中期以降は、瓦屋根の普及、土壁・土蔵造りなどの防火建築が発達したといわれています。江戸城や大名屋敷の消防隊である「定火消し」の発達に対して、町方の自衛消防隊の組織化はなかなかすすみませんでした。しかし、八代将軍吉宗の政治改革の過程で、町奉行大岡忠相のしどうによって「町火消し」の設置が進められました。町火消しは、地域ごとに火消し組合を組織し、町が火消し人足を定置する消防隊、火事場で互いの勇敢さを競う火消し足の活躍は、文学や演劇の題材となり後世に語りつがれます。
纏のシンボルタワー。
かつて、この地は、古代東海道の宿駅でした。
↓が、古代東海道。
当地は古東海道の渡河地で、平安の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。隅田宿は、治承4年(1180)に源頼朝が布陣したと伝わる宿で(『吾妻鏡』)、元来は江戸氏など中世武士団の軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北朝時代までには人と物が集まる都市的な場が形成されたようで、歌人藤原光俊が詠んだという13世紀中期の歌には、多くの舟が停泊しにぎわう様子が描かれています。(『夫木和歌抄』)また、室町時代成立の『義経記』には「墨田の渡り両所」と見え、隅田種宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがわれます。対岸との関係については今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについては、江戸時代の地誌に載る一部の伝承と絵地図が参考になります。それらを分析した研究成果によれば、所在範囲はおよそ図示したように想定されます。なお、人質にさらわれた梅若丸とその母の悲話を伝えた梅若伝説、そして罪業深い老母と娘の悲劇を伝えた石枕の伝説(一つ家伝説)など、隅田川流域にはいくつか著名な伝説が残されました。この付近に成立した隅田宿は、そうした伝説を育む場でもあったようです。
※石枕の伝説(一つ家伝説)ー浅茅ヶ原の鬼婆(あさぢがはらのおにばば)
東京都台東区花川戸に伝わる伝説。一つ家の鬼婆(ひとつやのおにばば)、一つ家(ひとつや)あるいは土地の名前だけをとり浅茅ヶ原(あさぢがはら)とも称される。
浅草寺(東京都台東区)の観音菩薩にまつわる伝説として江戸時代以後には書籍や演芸・芝居なども取り上げられ、広く知られていった。一軒家に棲む老女が宿泊する旅人をあやめて金品を奪っていたなどとする話は各地にみられ、これもそのうちの一例と見ることができる。
用明天皇の時代、武蔵国花川戸の周辺に浅茅ヶ原と呼ばれる原野があり陸奥国や下総国を結ぶ唯一の小道があったが、宿泊できるような場所がまったくない荒地で、旅人たちは唯一の人家であるあばら家に宿を借りていた。この家には老婆と若く美しい娘が2人で住んでいたが、実は老婆は旅人を泊めると見せかけ、寝床を襲って石枕で頭を叩き割って殺害し(『関八州古戦録』巻二では、天井から縄をつけた大石を落として圧殺したと記す)、亡骸は近くの池に投げ捨て、奪った金品で生計を立てるという非道な鬼婆だった。娘はその行いを諌めていたが、聞き入れられることはなかった。老婆が殺した旅人が999人に達した。ある日、ひとり旅の稚児(ちご)が宿を借りた。老婆は躊躇することなく、寝床についた稚児の頭を石で叩き割った。しかし寝床の中の亡骸をよく見ると、それは自分の娘だった。娘は稚児に変装して身代わりとなり、自分の命をもって老婆の行いを咎めようとしていたのだった。老婆が自分の行いを悔いていたところ、家を訪れていた稚児が現れた。実は稚児は浅草寺の観音菩薩の化身であり、老婆に人道を説くために稚児の姿で家を訪れたのだった。その後、観音菩薩の力で竜と化した老婆が娘の亡骸とともに池へ消えたとも、観音菩薩が娘の亡骸を抱いて消えた後、老婆が池に身を投げたとも、老婆は仏門に入って死者たちを弔ったともいわれている。
鬼婆が身を投げたとされる池は姥ヶ池(うばがいけ)と呼ばれてあり、現在も花川戸公園に残っている。池の大きさは、古くは隅田川に通じるほどの水をたたえた大きなものであったが、明治時代に宅地造成などのために大部分が埋め立てられており、かつての姿とはかけ離れたものとなっている。
(この項「Wikipedia」より)
遠くにスカイツリー。
木々の多い静かな公園。
「明治通り」に出ます。「向島百花園」がすぐ近くにあるので、ちょっと寄ってみます。