阪神電鉄争議 1924年主要な労働争議⑬ (読書メモ)
参照 「日本労働年鑑」第6集/1925年版 大原社研編
1924年6月16日、兵庫県尼崎市の阪神電車の労働者200余名は西宮八千代倶楽部にて、「阪神電鉄従業員組合」の名称を「郊外電鉄労働組合」と改め、代表藤岡文六と運輸課10名、動力課5名、電燈課5名の実行委員を選び、17日に以下の嘆願書を本社に提出した。
嘆願書
一、最低昇給率の確定
一、8時間労働制の実施
一、時間外勤務者への倍額支給
一、半期毎に50日分の賞与支給
一、月末賞与の本給繰り入れ
一、皆勤賞を6ヶ月皆勤から3ヵ月皆勤へ改める
一、祭日祝日出勤者へ日給の倍額支給
一、動力・被覆課に作業服の支給
一、電気課作業請負制の撤廃
一、皆勤公休改正
一、公休日の改正
一、兵役召集者への手当支給
一、労災での死傷病手当の改正
一、会社直営の病院設立
一、「阪神電鉄従業員組合」の承認
また、希望として寄宿舎の設立も要求した。組合は、この要求書を印刷して全労働者に配布して気勢を挙げた。
25日、第一回労資交渉。会社は、作業服の支給や兵役召集者への手当支給などは認めてきたが、肝心な重要案件である昇給や8時間制、残業代などはことごとく拒絶してきた。
26日、2回に分けて従業員大会を開催し、住宅補助手当などを追加し、あくまで要求貫徹を求めて、ストライキ闘争資金として一人3圓の積立を満場一致で決めた。
27日、千船町に争議団本部を設置し、争議準備に入った。この日の交渉は決裂し、争議団は28日午前4時からのストライキ決行を決めた。
『決議
・・・我らは、この没義道的な会社に反省を促すために、我らは我らの最後の武器である同盟罷業を大正十三年六月二八日午前四時より断行するものである。・・・正義の為に小異を捨て、天の公道上やむを得ず邁進するものである。』
28日、運転手249名、車掌261名、駅員108名全員と特別勤務約50名がストライキに突入した。尚、電気課156名中の57名、動力課166名中の86名、車両課192名中の170名もストライキに加わった。総数1000名近い阪神電鉄労働者の決起だ。
会社はあわてて監督や見習いを総動員したが、運転ができたのはわずか28輌でしかなかった。その車両と各停車場には正服巡査が乗り込み物々しい警戒振りをみせた。
30日、尼ヶ崎市長、西宮市長、御影町長らが争議調停に向けて協議を始めた。争議団は、神戸下山手青年会館において会社糾弾演説会を開催した。各地から応援の軍用米が続々と届けられた。
7月1日、会社からスト破りに動員された見習い車掌1名が、不慣れなまま無理やり働かされた結果野田駅の事故で轢死した。
4日、争議団は奈良公園で「遠足会」と称する示威行動を行った。
7日、会社は調停には絶対応ずることは出来ないと拒絶したため、調停者は会社を引き上げた。
10日、抗瀬都座で開催された従業員大会での報告演説中に尼崎署が組合幹部5名を検束する弾圧を行ってきた。これと時を同じくして会社は全罷業労働者に対して「15日までに出勤しない者は解雇する」と通告してきた。
11日、幹部を失って意気消沈した争議団に、杉山運輸課長が調停に乗り出し、労資交渉の結果12日に妥協案が成立した。
妥協案
一、従業員は無条件で復職する。会社は誠意をもって回答し、7月21日より実施する。
二、20周年の特別手当として日給の30日分を3回に分割して支給する
三、78名を解雇する。辞職の形にするが、会社都合退職して最高額手当を支給する。3か年未満の者には特別に一人90日分を支給する。
四、13日は公休として当日の日当は支給する
五、7月14日から一斉に出勤
12日午後1時より従業員大会が開催され東京から応援にきた加藤勘十らが熱弁を振るった。討議では妥協案を巡り労働者は賛否に分かれて激しく相争ったが、結局多数決で妥協案の受け入れが決まった。こうして15日間に及んだ阪神電鉄1千名ストライキは幕を閉じた。