博文館ストに参加した16歳の石倉千代子さん! 「野の草 ある印刷女工の歩み」石倉千代子著 1924年の女性労働者の闘い① (読書メモ)
参照
「野の草 ある印刷女工の歩み」石倉千代子著(日本婦人会議出版部発行)
博文館ストに参加した16歳の石倉千代子さん!
写真の本は、石倉千代子著「野の草 ある印刷女工の歩み」です。
日露戦争の最中の明治37年甲府市の貧農の家7人姉兄の末っ子として生まれた市倉千代子さん。7人の姉兄、4人の姉のうち上の2人は活版女工に、下の2人は製本女工にといずれも印刷関係の仕事につき、小学校にもいかずに貧しい家計を助けます。千代子さんも尋常小学校を卒業してすぐに仕立て屋に見習い奉公にだされますが、不器用な千代子さんは2ヶ月もしないうちに追い出されたため、姉たちを頼り上京して1917年(大正6年)小石川博文館(現在の共同印刷)に<見習い立ち番>として雇われます。千代子さんの仕事は活字のふりなが用の小さなルビの鉛の活字がぎっしり詰まった重い箱を、100名近くいる工場内のあちこちの活版職工が大声で「ルビや!」と叫ぶと、ただちにそこへ運ぶ労働でした。
使い走り担当の幼い男の子たちもたくさんいます。この子供たちは、文字通り「子供!」と呼ばれ、日給は17銭、朝7時からの10時間労働で休み時間は昼食の30分だけです。大人の職工や女工は毎日、3時間・4時間の残業、あるいは頻繁な徹夜・深夜労働も強いられていました。さすがに見習いの子供たちには、当時の工場法(1916年施行)ですら2時間以上の残業は禁止されていましたが、実際は千代子さんも度々交替勤務につかされます。まして工場法が適用されない零細・中小企業での「子供たち」は大人と同じ無制限長時間労働が強いられていました。千代子さんはこの仕事を通して自然と文字を読む知識が身についていったそうです。
1919年(大正8年)の博文館ストライキ!
1919年博文館や都内全市の印刷工がストライキを敢行します。この年、東京市内の活版印刷労働者の組合「信友会」が結成されます。<来たれ同工諸君、信友会は同工の要塞なり〉https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/6b501ee0d63a3da691695b7fada0a6e8
7月21日に博文館労働者が決起します。
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/69c7204362643f6902e38587e90429c2
東京小石川、博文館印刷所(男600名、女100余名)は「①賃金3割増②夜勤は2時間以内として、それ以上やる場合は賃金は倍額③日曜を公休とすること④傷病者の保護と退職の場合は相当の手当てをだすこと⑤婦人と幼年者の待遇の改善」など10項目を要求しストライキに入ります。この博文館労働者のストライキに地域の各印刷工場労働者が次々に呼応します。
日東印刷(50余名)
精美堂(250名)
日本書籍会社(約400名)
築地活版所(550余名)
秀舎約(300名)
東京三省堂(300名)
丸利(200余名)
宮本印刷所
博信堂約(50余名)
愛善社(50名)
東洋印刷所
中屋活版所
三秀舎
などの印刷工がストライキや闘いに立ち上がります。
また、10月の東京市内全域の印刷労働者のストライキ参加者は2000余名にも達しました。
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/5be6cdcb6155367dfd2dd8a658beede1
12月には当局に怒った印刷局労働者もサボタージュ闘争やストライキを行います。 https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/06b02e6dd63a36a9b7e830b7146ca423
翌1920年には、報知、満朝報活版部、東京朝日、やまと、讀賣、東京毎日、東京日日など都内各社の新聞社印刷工「正進会」による広範囲なストライキが起きます。
(新聞印刷工争議 1920年主要な労働争議⑤) https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/624621b9f318ed9a9649c4cd2aad97be
この興奮のるつぼとなったストライキに身をおいた16歳の少女市倉千代子さんは、闘いを通じて「横暴」「資本家」「階級」「団結」「裏切者」こんな言葉を一気に覚えます。サーベルを振りかざした官憲の「弁士中止! 」や検束!も目の当たりにして、彼女の中に眠っていたものが呼びさまされたのです。彼女たちは検束されていく仲間たちを警官に渡すまいとみんなで、よってたかって警官隊に体ごと殺到し怒号を浴びせ何人かの仲間は取り戻します。しかし、また仲間たちは検束されていきます。ストに突入した博文館何百人もの労働者は朝7時には工場近くの伝通院の広場に集まり、各職場毎の出欠を取り、昼は握り飯にタクアン、午後にはぶっかき氷がでました。
あれほど固く団結を誓いあったのに、同じ職場の労働者の中に裏切り者が出てきます。これには心底辛い心細さに襲われたと市倉千代子さんは言います。10日間のストライキは、16歳の千代子さんをはっきりと変えたのです。
『(ストライキは)16歳の少女にも、社会の矛盾と労働者のおかれている位置をはっきり示してくれた。・・働いても働いても一生浮かび上がることのできない、ことに(女工は)社会全体からもいやしめられている現実をどうしたらいいのか』
ストで日給も3割上り、年2回の賞与らしいものもでるようになり、月2回(1日と15日)しか無かった公休日が、他に第一と第三の日曜日も公休となります。慰安会で高尾山行楽も実行され、皆勤手当も改善されました。ストライキ中あわい初恋もしました。争議の解決時、会社は決してストの報復(クビ)はしないと確約したのに、半年もたたないうちに主なリーダーの労働者は次々と会社を追われます。初恋だった青年も姿を消しました。
スト後の数年間。一人前の欧文植字工となった千代子さんは芝あたりの中小印刷工場を転々と渡り歩き、今では男並みの給料を取るようになり、ついには役所農商務省での印刷植字の仕事までまかされるようになります。1922年(大正11年)18歳、麻布の文化夜間高等女学校に入学します。幼い時の千代子さんの夢は作家か教員になることでした。
1922年8月、千代子さんは役所勤めをやめて博文館に再び入社をします。今度は第二印刷工場で、ストの時の山下副団長が働いていました。23年の関東大震災、大杉栄と伊藤野枝の憲兵による殺害は、千代子さんに大きな衝撃を与えました。
1924年(大正13年)、博文館に再びストライキが勃発
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/5296f9b17f34d5a96a183ac185eb0c96
千代子さん二度目のストライキです。勝利した労働者の中に関東印刷労働組合の組織化の動きが起き博文館の中に初めての戦闘的労働組合が生まれます。2年後1926年の博文館大ストライキを題材にした小説『太陽のない街』を書いた徳永直もこの時は第一印刷工場整版科の腕のいい植字工でした。小説家菊池寛もよく工場に来ていて、青年たちは政治研究会を作り、マルクスを学びながら秋田雨雀らの援助を受けて演劇の研究に打ち込んでいました。
『夜でも昼でも 牢やは暗い
いつでも鬼めらが 窓からのぞく
のぞことままよ へいはこされず
自由にあこがれても 鎖は切れず』
この牢獄の歌(どん底のうた)が若者の間に流行ったのはこの頃です。
どん底のうた(牢獄の歌)
1926年(大正15年)70日余に及ぶ共同印刷(博文館)大ストライキは、資本と権力が結託して「ならず者、暴力団員」を雇いいれ、博文館の労働組合をいよいよつぶすという目的による大巻き返し、暴力による大弾圧との闘いでした。この闘いは、ついにつらい敗北で終わります。この共同印刷争議の詳細とそれ以後の石倉千代子さんの紹介は、いずれ機会を得てやりたいと思いますが、石倉千代子さんは、戦後1959年(昭和34年)保谷町議会議員となり以後通算10年間議員として、また砂川基地反対闘争、60年安保闘争など奮闘なさいました。この本は1981年、彼女が76歳の時に書かれたものです。