1922年、吹き荒れる大量解雇・工場閉鎖(読書メモー「日本労働年鑑」第4集 大原社研編)
(感想)
ちまたで失業者の群れがあふれる中、突然の解雇通告。この時代、失業保険もなく、まともな退職金も解雇手当もありません。まして探す仕事先も絶望的です。労働者とその家族にとって、この時代の失業とは、解雇通告のその日から文字通り路頭に迷うどん底の地獄にたたき落とされることでした。この時の悲嘆と怒りはいかばかりか。第一次世界大戦中の軍需景気では、労働者を徹夜徹夜で追い立て酷使していた資本家と政府。どれほど儲けに儲けていたかを皆はよく知っています。今度は不況だ軍縮だからと平然とクビにしてきます。だからこそこの年の労働者の闘いは、当然のことながら激烈な争議となります。それも、いわば「勝敗や戦術・戦略」以前の労働者の資本家への怒りの爆発です。また、大量失業は労資の力関係を資本家有利へと圧倒的に変換させます。資本家階級は、苦しみを訴える労働者に向かって、「文句があるなら、辞めてもらって結構だ。あんたの代わりは会社の門の前に幾らでもいるんだ」と、失業者の大群を前では資本家は彼らの階級的本性を隠す必要もなく、「生きたければ労働組合を裏切りなさい、そうすれば雇ってあげる」というわけです。こうして大量失業者の登場で、労資の主導権は、いまや完全に資本の手の側にあります。これが1922年大争議の敗北に次ぐ敗北の一番の背景です。
下に1922年における大量解雇をした主な大企業の一覧をあげてみました。資本家の残酷・悪虐・非道の本性の一覧でもあります。(NHKテレビ日曜ドラマで、渋沢栄一やらなんやらのあの時代の心のとても優しい、いい資本家がたくさん出てきますが、あれ全部ウソですから。)
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大量失業
1922年、巷には失業者が溢れ「30萬の失業者を見ん」の切実な声が起こります。この年も前年同様、不況を理由とした大規模な解雇・工場閉鎖の嵐が吹き荒れました。また、ワシントン会議による国際的軍縮の流れで、国内の軍事産業とその関連業界で極めて多数の労働者が解雇されます。これは同時に民間の造船所や鉄工所にも多大な影響を与えます。労働者の中に失業への不安が高まり、それは争議の多発と各会社での「解雇手当の設置・増額」「退職金手当の設置と増額」などの要求として現れました。文字通り深刻化した失業問題は、労働運動において、メーデーなどで「失業対策」「失業者救済」を企業や政府に求める運動となり、拡がります。政府・資本家による失業対策や失業者救済施策は甚だ貧弱です。民間企業では、唯一鐘ヶ淵紡績会社一社のみが、わずかな金で「失業基金」なるものを作りましたが、これだけが企業が行った失業対策としての我が国最初の試みであったのです。
海軍当局は「海軍からは断じて失業者は出さない、逆に職工募集をしなければならないくらいである」と言っていたその舌の根が乾かぬうちに10月に入るや海軍工廠や造船工廠で2回にわたって5600余名もの首切りを行ってきます。
1922年の大量退職・解雇の主な企業
三菱長崎造船所(3729名の解雇)
播磨造船所(380名解雇)
小野造船所(140余名解雇)
浅野造船所工場閉鎖と解雇(1754名解雇)
大阪鉄工所(6月スト参加者130名・7月616名の解雇)
横浜渡辺鉄工所工場閉鎖(150名解雇)
帝国紡績機械製造株式会社大津工場閉鎖(50余名の全労働者解雇)
大阪久保田鉄工所(92名解雇)
朝日建築鋳物工場(30名解雇)
東洋製紙会社(スト参加労働者全員300名解雇)
横浜魚油株式会社閉鎖
極東硝子会社(300名中100名解雇)
横浜亜鉛鍍金株式会社(40余名解雇)
東京亜鉛鍍金株式会社(突然120名解雇)
尼崎中山亜鉛工業所(突然50名解雇)
高木製材工場(260名解雇)
住友別子鉱業所西阪島精錬所(181名解雇)
八幡製鉄所(3600余名の減少)
三菱伏見伸銅所(74名解雇)
室蘭日本製鋼所(838名解雇)
藤田鉱業会社鋳鋼所閉鎖(250余名解雇)
神戸製鋼所(190名解雇)
電気製鋼所福島工場(100名全員解雇)
住友伸銅所(1200余名解雇)
日本製鋼所広島工場(264名解雇)
日東製鋼会社解散(170余名解雇)
尾小屋鉱山(精錬工470名解雇)
大阪電燈会社(300名解雇)
諏訪電気株式会社(60名解雇)
東京電気株式会社(58名解雇)
中島炭坑閉鎖(716名解雇)
岩瀬炭坑閉鎖(91名解雇)
日本郵船会社(7隻の乗組員170余名解雇)
阪神間の船員1495名失業
京成電車会社(工員50名解雇)
阪神電車(向上会幹部21名解雇)
官営
海軍の各地の工廠・造船工廠(5600余名解雇)