写真・1919年08月30日 友愛会が大日本労働総同盟友愛会に改称
1919年友愛会、労働組合へ
友愛会7周年大会宣言(1919年友愛会7周年大会「宣言」より抜粋)
「人間はその本然において自由である。ゆえにわれら労働者はかく宣言す。労働者は人格である。かれはただ賃金相場によって売買せしむべきものではない。かれはまた組合の自由を獲得せねばならぬ。資本が集中せられて、労働力を掠奪し、すべての人間性を物質化せんとするときに、労働者は、その団結力をもって、社会秩序の支持はただ黄金にあるのではなく、そは全く生産者の人間性にまつものであることを、資本家におしえねばならぬ。・・・・・ゆえにわれら生産者は、かく宣言す。われらは決して機械ではない、と。・・・・女工は紡績会社にうめき、幼年工は勤労の長きに疲れ、地の底より女坑夫は叫び、立ち上がる。ああ、いまは解放のときである。」
『労働者新聞』第12号、1919.6.15
「我等の労働運動は決して単純なる金銭問題に非ず。勿論、賃銀問題待遇問題が労働問題の直接刺戟機線(ママ)なるは当然なるも、然も其原動力中心要求は意識的の人間解放であり、人間平等の容認を求むる自覚の絶叫である。資本家の専横と圧迫に対する権利の奪還的反抗運動である。雪辱戦である。生存権の主張だ。生活意志の高調である。我等は奴隷的屈辱的地位を逃れんとするのである」。
友愛会神戸聯合会の機関紙上での一労働者の発言は、労働者が労働運動に何を期待したかをはっきり示している。労働運動は「人間解放」「社会改造」をめざす運動たることを期待されていたのである。一方、この時期に多くの知識人が労働運動へ接近し、参加した動機も「解放」であり「改造」であった(二村一夫)。
帝都三万の活版印刷工諸君よ!(1919年活版印刷工組合信友会ビラ)
「活版工諸君よ、団結は誰しも叫ぶところである。しかしながら線香花火式の一時的団結や局外者関係の組合は団結をして無意義ならしむ。近くば都下各新聞社ストライキにおける革進会の行動に由っても立証せらるゝ、平素において共同一致の訓練を欠ける団結は有事の際にその真の威力を発揮することは不可能である。真に堅固なる労働組合を建設して初めて資本家同盟に対抗することができるのである。・・・我が国に完全なる労働組合ありや諸君よ今にして為すところなくんば後に臍を噛むの悔いあらんか速やかに奮起せよ。今や我が信友会は同工の団結を図りて堅固たる組合の力により横暴頑迷なる資本家を猛省せしめ、その陋習(いやしい、せまい習慣)を矯正して我らが人間らしき生活に適応する賃金を獲得して、その地位を向上するために全力を尽くさんとす。来たれ同工諸君、信友会は同工の要塞なり。」
参照
「日本労働年鑑第1集1920年版」大原社研
「第一次大戦前後の労働運動と労使関係 ─ 1907~1928」二村一夫
「日本労働組合物語 大正 大河内一男、松尾洋」筑摩書房
「友愛会の発展過程」松尾尊兊
「日本労働組合100年」大原社研 旬報社
「日本労働運動史年表第一巻明治大正編」青木虹二 新生社版
「韓国併合」海野福寿 岩波新書
「植民地朝鮮と日本」趙景達 岩波新書
「日本統治下の朝鮮」山辺健太郎 岩波新書
《決起、弾圧、再び決起再び弾圧、さらに決起》
1、1917年~全国でストライキが勃発。その時友愛会はどう変わったのか。
1912年15名のキリスト教徒で結成され、渋沢栄一ら資本家・実業家らの歓迎・援助も受けた労働者の親睦団体として出発した友愛会。
「元来資本と労働の利害は必ず一致すべくして、決して互いにそむくものではない」と労資協調を看板にした友愛会結成宣言。「主義者の運動と断絶していた。だから労資双方から市民権を勝ち得た」(青木虹二)。
1912年当時から全国では数多くの労働争議・ストライキが勃発していた。しかし、「友愛会が1912年の創立以来、労働争議やストライキに調停・介入したケースは、結成から3年間で、わずか17件でしかなかった(二村一夫)。この17件の調停・介入も主には鈴木会長など幹部が会社を訪ね、会社側と<ボス交渉>で一定の解決を実現するというものであり、直接争議団や労働者と協議し、闘いやストライキを指揮したり、支援するというものではなかった。
〈1916年には、神奈川富士ガス紡績保土ヶ谷製綿工場労働者のストライキで横浜の友愛会支部長は「このストをしているのは社会主義者だ」とスト参加を拒否したためこのストライキは敗北し、翌年の東京藤井レンズ工場や横浜東西電気会社のストライキに際しても、友愛会はそこの労働者から応援を求められたのに「会員がその中にいない」と支援を断ったりする反階級的行動も起こしている」〉(山川均)。
<1917年ストの爆発>
ロシアの2月革命、10月革命の1917年、日本でもまるでロシア革命に呼応したかのように突如全国の労働者はストライキに爆発的に決起している。労働争議件数もストライキに参加する労働者数も激増。ストライキ参加者数は、前年1916年までは毎年1万人に満たない数だったのが、この年の1917年からは57,309人、1918年66,457人、1919年63,137人と一挙に増えている。このような全国労働者が立ち上がる大きな激流の中で、友愛会(の労働者)も1916年の横浜船渠ストライキ、1917年の東京池貝鉄工所581人(友愛会員320人)ストライキ、室蘭日本製鋼所2810人(友愛会員600人)などのストライキを9日間、4日間・・・と敢然と闘った。
「横浜船渠争議では、横浜支部500名の会員が多いもので2、30円、少なくても2、3円づつ出し合ったり、食料やビールやサイダーなどを送って争議を支えた。親睦団体からまさに階級意識が高まった労働組織への変貌していったのである」(「友愛会の発展過程」松尾尊兊)。
(一方で、友愛会本部は、1917年7月26日「スト頻発に関して会員に自重を求める」の声明をだしている。1917年の労働者民衆の革命的決起に動揺したのは、決して資本・権力の側だけでなく、友愛会本部の一部幹部自身もまた大いに動揺していることを示している)。
友愛会東京連合会結成、友愛会神戸連合会、友愛会大阪連合会、友愛会東京印刷工組合結成が結成された。この年は三菱長崎造船所賃上要求ストや浅野造船6千人暴動などがある。
1月 池貝鉄工所友愛会員320人で581人がスト(東京)
1月 藤井レンズ83名スト(東京)
1月 石川島造船所スト(東京)
2月 本所三田土ゴム会社380人スト(東京)
3月 日本製鋼室蘭2,810人スト、友愛会活動家一斉検挙で敗北(室蘭)
6月 東京毛織物会社王子分工場500人スト(東京)
6月 日本兵器東京分校300人スト(東京)
7月 大阪鉄工所因島工場5,000人スト、敗北(広島)
7月 富士瓦斯紡績押上工場338人スト、鈴木会長の調停不調(東京本所)、同富士瓦斯紡績小名木川14人押上工場に同調しスト(東京)
10月 友愛会東京印刷組合結成
11月 浅野造船所6千人暴動
「池貝鉄工、日鋼室蘭のほか、三田土ゴム、東京計器、同小名木川分工場、深川ガス、東京製綱、東京毛織、日本兵器、三菱神戸造船所、磐城炭坑、富士瓦斯紡、精工舎、共立電機、日本蓄音器などの争議に友愛会員が関与したことが明らかである。なお、18年4月の友愛会6周年大会の会務報告は、この1年間に本部が調停に関与した争議件数を約70件とのべており、実際に友愛会の支部が関係した争議は、これよりさらに多かったと思われる」(二村一夫)。
友愛会の1912年結成当初の労資協調の姿勢から闘う姿勢へと大きく変化させ、ストで果敢に闘う労働者を応援する友愛会(の労働者)に対して寺内内閣・資本家側はそれまでの融和姿勢から友愛会(の労働者)弾圧へと露骨に舵を切ってきた。
「1917年の池貝争議の終結後、東京の鉄工業者たちは、友愛会ブラックリストを作り友愛会員を雇わないことを申し合わせ、室蘭では労働者の要求を受け入れた代わりに22名の友愛会の中心人物を解雇し、労働者には友愛会からの脱退を強要し、そのため600名いた室蘭支部は完全に壊滅させられた。日本製鋼室蘭工場は軍需工場であったため、この争議を契機として寺内内閣は友愛会攻撃を策動しはじめた。横須賀、呉両海軍工廠では友愛会脱会の圧迫・強要が工場幹部から激しく行われ、友愛会から脱会する労働者が続出し、脱会を拒否した者はくびを切られた。舞鶴工廠では、友愛会支部の右翼的幹部に工友会なる御用団体が作らせ、友愛会会員の大部分が脱会させられた。このように資本・政府による友愛会への攻撃は友愛会組織全体に及んだ。警察は友愛会本部・支部の幹部の身元調査を公然と取り調べた。各工場の資本家は、自らの職場の友愛会会員に脱会を迫った。政府は友愛会の有力な後援者である渋沢栄一に後援をやめるように働きかけた」(「友愛会の発展過程」松尾尊兊)。
しかし、一旦目覚めた友愛会(の労働者)は闘いをやめなかった。1917年第5周年大会(会員20,290人)では「職業別支部を作る」という画期的規約を定め、さっそく10月に産別支部「友愛会東京印刷工組合」を設立している。(しかし、この大会の最終日には渋沢栄一男爵庭園で9千人の友愛会園遊会が開催されるなどこの段階でもいまだ初期友愛会の特徴が色濃く残っている)。
2、1918年~『労働組合公認』『治安法17条撤廃』『普通選挙実施』『8時間制』の社会運動 !
この年の日本民衆の大暴動であった米騒動に呼応した労働争議・ストライキが全国で頻発している。
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/ea1e5d9b1bd35f916feda31b30d38075
「米騒動の民衆大暴動は、多年政治家たちが苦心してきた立憲政治を一瞬にして実現した。この時から民主主義運動は、にわかに進展していった。」(日本労働組合物語大正 大河内一男・松尾洋)。
1918年の労働争議は417件、争議参加者は66,457人にのぼった。大正デモクラシーを率いた吉野作造や大山郁夫らの「黎明会」が結成され、学生らは東京帝国大学で吉野作造らの指導で宮崎竜介らが「新人会」、早稲田大学では浅沼稲次郎らが大山郁夫らの指導をえて「民人同盟会」を結成し、彼らの共通したスローガンは、ともに「民衆の中へ」であった。
友愛会6周年大会大阪で開催(会員3万人、120支部)され、大阪知事からも歓迎文が届いた。関西における友愛会の活動は目覚ましく発展し関西の労働者は訓練統一された行動を取りはじめた。また、友愛会は労働争議やストライキに積極的に指導、支援をしている。「この1年間に本部が調停に関与した争議件数を約70件とのべており、実際に友愛会の支部が関係した争議は、これよりさらに多かったと思われる」(二村一夫)。
3、1919年とは
1917年のロシア革命、1918年の日本軍シベリア反革命出兵、内閣を倒した全国的大暴動・米騒動と軍隊等による鎮圧、1919年の朝鮮3・1運動など朝鮮独立闘争と日本軍の大弾圧(3月から12月までの砲火で殺害された数は10万人を超え、検挙者の数は26,443名--「日本統治下の朝鮮」山辺健太郎 岩波新書)、中国民衆大決起の5・4運動、1917年以来拡大する爆発的急増のストライキなど内外の大激動、1918年米騒動・農民民衆の大暴動大決起、学生らは東京帝国大学で「新人会」、早稲田大学で「民人同盟(建設者同盟)」を結成し、ともに「民衆の中へ」がスローガン。世界ではコミンテルン創立、ILO創立・・・と世界的大激動・大変化の年。
しかも1918年から20年にかけて世界中でコロナ・スペイン風邪が大流行した。日本だけで死亡者は40万とも50万ともいわれている。 この当時の工場の労働時間は12時間労働が当たり前、13時間14時間も多かった。公休日はよくて月2日しかなく、店舗などは公休日は1ヶ月全くないところも。長屋など住宅事情は最悪、栄養不良と過労で身体が弱っている労働者階級と家族子供たちにスペイン風邪が襲いかかった。もともと長時間労働による過労や低賃金による栄養不良でクタクタな仲間や家族が周りでバタバタ死んでいったであろう事は今の私たちにも容易に想像はつく。スペイン風邪で最も被害を受け犠牲になったのは労働者階級、だからこそ自分たちだけは清潔安全な環境で贅沢三昧して優雅に暮しながら労働者を低賃金で長時間酷使し一方で侵略戦争や民衆弾圧を平然と行っている支配者・資本家階級への労働者民衆の怒りも半端ではなかったと思う。
4、3・1運動と友愛会の顧問・評議員の吉野作造
「200万人以上が立ち上がり朝鮮独立を叫んだ1919年3月1日の3・1運動は、5月までの間だけで朝鮮全土で1491回の暴動・示威行動が起きた。日本軍の徹底した弾圧により、7,500人が殺され15,961人が負傷、46,948人が検挙された。この3・1運動に対して友愛会の顧問・評議員であり大正デモクラシーを率いた最大の理論家でキリスト者の吉野作造は、3・1直後の3月19日に「黎明会」に朝鮮人学生を招き、その志を聴いている。ただちに講演会を開き日本政府の武断政治や同化政策を批判した。吉野作造が影響のある東京帝国大学の「新人会」も朝鮮の植民地化を非難し、朝鮮独立を主張した。また、石橋湛山と三浦鉄太郎の『東洋経済新報』で石橋は「歴史ある朝鮮人の反抗を抑えるには、いかなる善政を敷こうと無駄であり、「自治の民族」にするしかないと断言した。宮崎滔天も朝鮮の独立を断固支持すると表明し、日本の大陸侵略を批判する構えを見せた。吉野作造と同じキリスト者であった群馬県安中教会牧師の柏木義円や日本基督教会の植村正久らも総督府の3・1運動弾圧と日本帝国主義を批判する声をあげた」(「植民地朝鮮と日本」趙景達著 岩波新書)。
3・1運動への日本政府と軍部や多くの新聞は3・1運動を「暴徒」「暴民」「騒擾」と報道した。これが日本の一般的認識であった時の友愛会の顧問・評議員であったこの吉野作造らの姿勢こそ評価したい(のちの1923年9月1日に勃発したの関東大震災時の朝鮮人虐殺に対しても吉野作造らは真正面から非難・糾弾した。(それに比べ、震災「9月1日から一ヶ月も経っていない9月29日の鈴木文治会長の朝鮮総督府への手紙『鮮人労働者保護に関する意見書』は「日本の植民地統治をそのままみとめ、むしろこれを継続させるための献策をしているのは驚くほかはない。」「総同盟の一部指導者は、(震災時の朝鮮人・中国人虐殺事件、南葛の同志虐殺亀戸事件、大杉栄一家殺害事件等の)政府・資本支配者の大弾圧にすっかり動揺し腰を抜かした。この体たらくがそのあとの総同盟の右傾化と左右大分裂を招くことになる」(「日本統治下の朝鮮」山辺健太郎)。
5、友愛会、労働組合に発展
1918年日本民衆の大暴動であった米騒動に呼応した労働争議・ストライキが全国で頻発している。この年の全国の労働争議は417件、争議参加者は6万6千人にのぼった。友愛会が関係した労働争議は過去一年で70件以上。関西における友愛会の活動は目覚ましく発展し関西の労働者は訓練統一された行動を取りはじめた。
1919年労働争議497件、参加者63,137人。全国で頻発するストライキの激発
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/4acd7cff0450016d7019bdb7703f7b13
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/6dce9b228e001f4b2c0253ef815044db
そして各地で労働組合の結成が。
このさ中、友愛会はどう変わるのか。
「友愛会の急進化の背景には、労働争議の激増がある。」(友愛会の発展過程 松尾尊兊)
1919年この年労働組合結成が71組合と激増した。
4月 友愛会関西労働同盟会結成 組合員は神戸・大阪・京都の約1万人。賀川豊彦理事長
5月 大阪鉄工組合発会式
5月 *大島製鋼所ストライキ
5月 新人セルロイド職工組合(全国セルロイド職工組合発会式 永峯セルロイド組合 渡辺政之輔と東大新人会、亀戸で発会式開催)
6月 東京俸給生活者同盟
7月 東京新聞製版・印刷工組合「革新会」(800名)の結成と16新聞社製版工統一ストライキ
8月 東京砲兵工廠に小石川労働会結成
8月 啓明会結成
8月 奥村電機スト、鈴木会長の調停に労働者反発、友愛会脱会続出。
8月 友愛会7周年大会で「大日本労働総同盟友愛会」と改称
9月 大日本鉱山労働同盟会結成
9月 東京市電で日本交通労働組合結成
9月 川崎造船所サボ闘争
9月~ ILO官選労働者代表反対運動(演説会、反対デモ)
9月 早稲田大で建設者同盟結成
10月 全国坑夫組合結成
10月 神戸製鋼所労働者、8時間制要求しスト、不成功
10月 八幡製鉄所労働者を主体とする日本労友会結成(浅原健三ら)
11月 東京市電従業員組合、8時間制など要求し騒動。
11月 釜石鉱山労働者、大日本鉱山労働同盟会支部結成、286人解雇撤回、8時間制など要求してスト・暴動、軍隊出動、会社譲歩で妥結。
11月 足尾で大日本鉱山労働同盟会結成、足尾銅山で飯場制撤廃など要求しストライキ。
12月 友愛会日立事件
12月 普選期成関西労働連盟(友愛会賀川豊彦の呼びかけ)結成
*大島製鋼所ストライキ(現大島四丁目団地)
多くの労働者が友愛会の会員であった大島製鋼所
大島製鋼所が100人の労働者を突然解雇し、1000人の労働者が怒りストライキに突入する。5月9日夜、大島町の五ノ橋館で労働者大会を開催。友愛会の東京鉄工組合代表の松岡駒吉(後に労働総同盟会長)や後に亀戸事件で官憲に殺される城東連合会長の平沢計七らが演説。亀戸署長の調停で争議は解決。
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6、<ロシア革命の報に心をおどらせ、米騒動に民衆の力を知った労働者>
1918年の米騒動の民衆大暴動は、多年政治家たちが苦心してきた立憲政治を一瞬にして実現した。この時から民主主義運動は、にわかに進展していった。」(「日本労働組合物語大正」大河内一男・松尾洋)。
国内で「普通選挙制度の要求」「労働組合の公認」「治安警察法第17条の撤廃」の3大政治・社会闘争が爆発した。こうした社会運動の発展、敵の弾圧、世界民衆の決起、国内労働者のストライキ激発の中、友愛会(の労働者)も大きく変貌した。
「関西における友愛会の活動は目覚ましく発展し関西の労働者は訓練統一された行動を取りはじめた。1919年4月友愛会関西労働同盟会創立大会、組合員は神戸・大阪・京都の約1万人。賀川豊彦、高山蔵三等の熱烈なる指導者も生まれ、一斉に『労働組合公認』『治安法17条撤廃』『普通選挙実施』『8時間制』等を勇敢にかつ堂々と大きな旗を掲げるに至った。大々的な示威行動、演説会と労働運動は一気に熱と力を得て影響は全国に拡大した。友愛会紡績労働組合、友愛会鉄工組合、友愛会京都連合会結成。この年は米騒動と連携した労働争議・ストライキが全国で頻発している」(「日本労働年鑑第1集1920年版大原社研)。
「階級的な連帯感を育てる上で大きな役割を果したのは、個別資本を相手とする労働争議よりもむしろ政治的問題をめぐる共同闘争であった。その第1は、治安警察法第17条の撤廃運動と普通選挙運動であり、第2はILO労働代表の選出問題や官選労働代表反対運動であった。第1の運動の口火を切ったのは友愛会、とりわけ神戸聯合会を中心とする関西の活動家であった。19年はじめのことである。1919年8月に友愛会が大日本労働総同盟友愛会と改称し、名実ともに労働組合の全国組織たることを表明するにいたったのも、この運動の直接の成果といえる。普選運動は翌年2月にかけてさらに広汎な労働組合を結集し、関西では普通選挙期成関西労働聯盟が、関東では普選期成治警法撤廃関東労働聯盟が結成されたのである」(二村一夫)。
1月~友愛会大阪連合会の「労働組合公認運動」。
1月16日大阪「労働組合公認期成大講演会」中の島公会堂で開催3千人。西尾末広友愛会加入。
2月2日神戸「学生・労働者連合労働問題演説会」開催1500人、河上肇ら講演。2月15日京都「普選期成労働者大会」開催5千人、尾崎行雄講演。京都駅に300名の友愛会会員が「われら選挙権を要求す」「普選期成労働者大会」と大書した旗を掲げ、4隊に分かれて都大路をデモ行進。京都市電600人労働者が友愛会に入会し、伏見、淀、宇治などら友愛会支部が結成され友愛会は拡大した。
3月15日友愛会、議会に治安警察法改正を請願
友愛会紡績労働組合、友愛会鉄工組合、友愛会京都連合会結成も結成された。
◎奥村電機商会労働争議鈴木会長の裏切り?
1919年7月~奥村電機商会労働争議。7月奥村電機商会労働争議900余名「友愛会を承認すること」「賃上げ」「毎日曜を公休とすること」を要求してストライキ。労働者は奥村電機の入り口で友愛会の記章を胸にピケを張り、会歌を高唱して工場のまわりをデモ行進した。本部の松岡駒吉や神戸の賀川豊彦らも応援に駆け付けたが、友愛会鈴木文治会長は奥村社長らと交渉し、賃上げも友愛会承認もないまま妥結してしまった。幹部が勝手に妥結し争議解決を決めたことに怒った労働者は、こぶしをふるって幹部を糾弾し、胸の記章を引きちぎりたたきつけ友愛会脱会を宣言した。友愛会事務所の前にはたくさんの記章が投げ捨てられ、友愛会の旗は倒され、目も当てられない始末となった。脱会する者が続々とふえ友愛会京都連合会は壊滅に瀕した(「日本労働組合物語 大正 大河内一男、松尾洋」筑摩書房)。
8月の友愛会会員は5万余人、支部総数150余ヵ所で北海道から満州まで拡大。
1919年8月30日の友愛会7周年大会で名称を「大日本労働総同盟友愛会」と労働組合へ新生し、新たな会則、綱領、政綱を決めた。この大会には社会主義者堺利彦が来賓として参加した。理事22名、山内みな子、野村ツチノの女性2名が理事に選ばれ、顧問の評議員には、吉野作造、高野岩三郎、河上肇、安倍磯雄らが選任された。その後名称から「大」と「友愛会」を削除し、1921年には「日本労働組合総同盟」と改称し正真正銘の労働組合となった。
「生産者が完全に教養を受け得る社会組織と生活の安定と自己の境遇に対する支配権」(宣言)を要求し、これまでの協調主義から一歩踏み出した(青木虹二)。
友愛会7周年大会宣言
「人間はその本然において自由である。ゆえにわれら労働者はかく宣言す。労働者は人格である。かれはただ賃金相場によって売買せしむべきものではない。かれはまた組合の自由を獲得せねばならぬ。資本が集中せられて、労働力を掠奪し、すべての人間性を物質化せんとするときに、労働者は、その団結力をもって、社会秩序の支持はただ黄金にあるのではなく、そは全く生産者の人間性にまつものであることを、資本家におしえねばならぬ。・・・・・ゆえにわれら生産者は、かく宣言す。われらは決して機械ではない、と。・・・・女工は紡績会社にうめき、幼年工は勤労の長きに疲れ、地の底より女坑夫は叫び、立ち上がる。ああ、いまは解放のときである。・・・・」(1919年友愛会7周年大会「宣言」より抜粋)
政綱
1、労働は商品ではない
2、労働組合結成の自由
3、幼年労働の廃止
4、最低賃金制の確立
5、同一労働に対する男女平等賃金制度の確立
6、日曜日休日(週1日の休養)
7、8時間労働制と週48時間制の実施
8、夜業(深夜労働)の禁止
9、婦人労働監督官の設立
10、労働保険法の実施
11、争議仲裁法の発布
12、失業防止
13、内外労働者の同一待遇
14、労働者住宅を公営で設立
15、労働賠償制度の確立
16、内職労働の改善
17、契約労働の廃止
18、普通選挙
19、治安警察法の改正
20、教育制度の民本化
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(まとめに代えて)
17年以降の労働争議の頻発、労働組合の相次ぐ結成は、労働者の団結の一定の拡がりを示していた。またそのこと自体、さらに広汎な労働者の団結を育てる要因として作用した。とりわけ、先進的な労働者の間では、職業や経営の枠をこえて、労働者階級としての連帯感が生まれていた。
こうした階級的な連帯感を育てる上で大きな役割を果したのは、個別資本を相手とする労働争議よりもむしろ政治的問題をめぐる共同闘争であった。その第1は、治安警察法第17条の撤廃運動と普通選挙運動であり、第2はILO労働代表の選出問題や官選労働代表反対運動であった。
第1の運動の口火を切ったのは友愛会、とりわけ神戸聯合会を中心とする関西の活動家であった。19年はじめのことである。19年8月に友愛会が大日本労働総同盟友愛会と改称し、名実ともに労働組合の全国組織たることを表明するにいたったのも、この運動の直接の成果といえる。普選運動は翌年2月にかけてさらに広汎な労働組合を結集し、関西では普通選挙期成関西労働聯盟が、関東では普選期成治警法撤廃関東労働聯盟が結成されたのである。
第2の運動は、友愛会だけでなく多数の労働組合の共同闘争をすすめた。まず9月にはILO労働代表選定協議会に参加を認められなかった小石川労働会、新人セルロイド工組合など18団体が大日本労働聯盟を結成し、さらに政府が労働組合の反対をおしきって鳥羽造船所技師長・桝本卯平を労働代表に任命してからは、友愛会、信友会、大日本労働聯盟、大日本鉱山労働同盟会等は一致して反対運動を展開した。こうした共同闘争を経て労働組合の統一の動きはさらに一歩前進し、1920年には恒常的な連合体を組織するまでにいたった。同年5月2日の第1回メーデーを機に友愛会、信友会等の9団体が労働組合同盟会を結成したのである(21)。同様の企ては関西でも進み、友愛会、向上会、大阪鉄工組合等の13団体は関西労働組合聯合会を結成した。労働組合同盟会、関西労働組合聯合会はともに地方的な連合体であり、組織的にも、活動面でも決して強固な組織ではなかった。だが、普選や治警法廃止、ILOなど特定の課題をめぐる共闘から主要労働組合を網羅した恒常的な組織の結成に進んだことの意義は軽視できない。
政治課題をめぐる統一行動の展開、労働戦線統一の進展は、個々の労働争議に対しても、これをその経営体の労働者だけの問題とみるのでなく、階級全体の問題としてとらえる視点を育てていった。周知のように、1919年12月、大日本鉱山労働同盟会が関与した足尾争議にあたって、友愛会、信友会、小石川労働会、日本交通労働組合などは協議会を開き、「凡ゆる労働争議に対し、之れを単なる部分的問題にあらずして吾人労働階級全般の消長に関するものと認め、今後一切の情実を廃して一致協力以て之が貫徹に努めんことを期す」と声明している。この背景には、桝本労働代表排斥運動での共闘の積み上げがあったことは明らかである。
翌20年4月の東京市電ストに際しては、メーデーの準備にあたっていた各組合は一致して日本交通労働組合を支持した。メーデー当日も、同争議支援の緊急動議が可決されている。労働組合同盟会も、折からの戦後恐慌によって問題化した失業対策の実施を政府や資本家に要求する統一行動をおこなったり、天下り労働組合法に反対する宣言を発する等の活動のほか、労働争議支援に力を入れた。20年の友愛会紡織労働組合による富士紡争議、正進会による東京15新聞社印刷工争議では、寄附金募集、応援演説会や支援デモなどが組織されている。(二村一夫)