今、戦前最長のストライキ、1927年の野田醤油争議を勉強していて、どうしても気になる方に、野田醤油の労働組合、労働運動の創立者と呼ばれている小泉七造がいます。彼は室蘭日本製鋼所の旋盤労働者で、友愛会室蘭支部の会員として日鋼室蘭争議を果敢に活躍した闘士でした。1919年の争議の時、日鋼室蘭を追われた多くの労働者の中のひとりでした。彼はその後単身千葉野田町で機械工として働き、あるいは石鹸を行商しながら醤油労働者の中に入り、1921年、野田醤油で労働組合の結成と以後幾つもの争議やストライキを指導し、また関東地方一帯の醸造労働者の産別労働組合、関東醸造労働組合の結成に関わり、ここでの大小の争議の支援や指導を野田支部の先頭にたって闘うなど獅子奮迅の働きをします。
この実に尊敬すべき先輩旋盤労働者小泉七造を生み出した1919年などの室蘭日本製鋼所大争議とはどんな闘いだったのか、日本労働年鑑第1集/1920年版には室蘭日本製鋼所争議の詳細は書かれておりません。「北海道社会運動史」渡辺惣藏著から学んでいきたいと思います。
北海道室蘭日本製鋼所大争議 1919年の労働争議(読書メモ)
参照「北海道社会運動史」渡辺惣藏
1、友愛会室蘭支部
室蘭の日本製鋼所は、当時日本最大の最新の兵器工場であり、全国各地から優秀な技術工が室蘭に集まった。1912年(明治45年)6月に、米価値上りの中、労働者は賃上と深夜労働時間の短縮などを要求し、また労働強化に反対して、会社側と交渉し、サボタージュ闘争を闘い、7月1日に労働者に有利な回答で妥結した。また、1914年(大正3年)5月には、会社が一方的に決めた夜業手当の減額に反対し勝利的妥結をしている。
1913年(大正2年)4月、東京の池貝鉄工所の勤務中に友愛会に入会した労働者三木治郎ら3名が、室蘭の日本製鋼所へ転勤となり、そこで友愛会の会員獲得に努力した。1914年(大正3年)11月23日、友愛会室蘭支部発会式が友愛会鈴木文治会長の出席で室蘭の労働者100余名が参加者して開催された。友愛会鈴木会長らが演説をし室蘭労働者側を代表して松岡駒吉が発言した。小泉七造もこの頃友愛会に入ったのではないでしょうか。
2、室蘭日本製鋼所第一次争議
1917年3月13日、500余名が賃上2割増、夜勤割増賃金の増額などを要求したが、会社は拒絶してきた。3月14日正午の工場の汽笛を合図に第五工場鋳物職工200名が一斉に職場を放棄してストライキに入った。15日からはサボタージュ闘争、午後にいたって第一、第二工場の約1,200名が2回にわたって職場をはなれ、ここに大争議の火ぶたが切っておとされた。室蘭署と札幌署は警官を急派させ、活動家を一斉に検挙し、8名を治安警察法違反容疑で起訴してきた。第七師団の藤井中将は、在郷軍人会300名を召集し、争議の弾圧に当たらせた。
闘争本部は各工場の小頭76名全員を闘争委員として結束を固め、会社との交渉を友愛会鈴木会長に依頼した。元海軍少将の水谷所長は、第三者との交渉は拒否すると鈴木会長に回答したため、交渉は決裂した。会社は6ヶ月以上の勤務者には賃上げをすると一方的に発表し、争議団の分断と切り崩しをはじめてきた。やむなく鈴木会長の裁断により会社提案を飲むこととし、3月22日をもって闘争を打ち切り、23日から全員が就労をした。
3、会社の復讐
3月23日、会社は23名の馘首を宣告してきた。その中には治安警察法違反容疑で起訴されていた8名も含まれていた。会社の攻撃と警察の一斉検挙により、6月には友愛会室蘭支部は滅的打撃を受けた。
4、第二次争議
少数となって室蘭に残された友愛会会員は、会社の攻撃に堪えて必死な再興運動を続けていた。1919年(大正8年)10月7日、第二次争議が勃発した。旋盤工であった小泉七造も属していたであろう機械工場の班長約30名が、工場主任に対して物価上昇による労働者の生活難を訴え賃上げ等の覚書を提出した。会社はつれない対応をしてきた。これを見た機械工場2,300名は、賃金日給7割値上、8時間労働制などの要求を決め互いに闘争資金を徴収し交渉代表を選び、4日から一斉にサボタージュ闘争に突入した。あわてた会社は翌日5日に、男工・女工一日につき、金20銭宛支給する、職工の勤務成績に応じた増給をすると発表してきたが、労働者側はこれを不満とし、6日再びあらためて要求書を提出した。
要求
一、給料7割増
二、八時間制の採用
三、徹夜業二人分支給
四、残業一時間5分増
その他
機械工場1,600名労働者の結束は固く、合言葉を決めるほど連絡を互いに密に取り合い、結束を強めた。会社は8日朝、全工場に休業を命じ、職制100名を動員し、労働者の自宅を訪問させ1割昇給を餌になんとか労働者の結束を切り崩ずそうとしてきたが失敗した。機械工場以外の工場でもサボタージュ闘争が拡がった。
10月13日、会社は小頭約300名を動員し、小頭から労働者に命じさせて就業を再開させようとしたが、機械工場労働者の団結はますます堅く、あくまで7割増給、8時間制を要求し続けた。
5、急転直下の解決
機械工場約400名の硬派労働者が、突然、抗議の辞表を会社に一斉に提出した。400名の中には主要な配置につく熟練工が多く、このままでは今後の操業ができないとすっかり狼狽した会社は、400名に必死の切り崩しを行ってきた。18日、室蘭区長(現市長)と警察署長の調停により、賃金は平均5割の増額で急転直下妥結した。
6、友愛会支部の壊滅
会社はますます友愛会を敵視し、職場ではいよいよ友愛会会員への徹底的排斥攻撃を強め、友愛会の主な活動家は職場を追われ友愛会室蘭支部は消滅してしまった。しかし、地域の工場の労働者決起へと闘いは波及していった。
7、他の会社の労働者決起
日鋼に合併されたばかりの輪西分工場は、日鋼室蘭争議をみて士気に感じた労働者が自らも賃上を求めサボタージュ闘争にでて1割から2割の賃上げを勝ち取った。
10月函館船渠労働者150名が賃上を要求しストライキをおこし、また札幌鉄道局函館工場労働者200名が3割増給など待遇改善を要求して紛争が起きた。
8、1921年小泉七郎、野田醤油で2千名労働組合を結成
1921年には小泉七郎が野田醤油で2千名労働組合を結成した。このように日鋼室蘭争議は、その後の日本労働運動で活躍した指導者・活動家を生み出した。神戸製鋼所に労働組合を結成した桂兼吉など有名、無名の多くの闘士が全国に散り、各地で労働運動を大きく飛躍させている。
その他
戦後1954年6月の室蘭日本製鋼所193日ストライキも有名。室蘭労組(3700名中901名を指名解雇)の会社の大量解雇攻撃と二組結成分裂と闘う家族ぐるみ・町ぐるみの大争議。