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(写真)
上・争議団本部前の山一林組少女たちと群衆、応援労働組合員
中・スト突入を知らせる新聞記事
下・「山一林組をこらせ(こらしめろ)」の大のぼり旗を先頭にデモ
山一林組製糸女性たちの闘い(その二) 「暴虐なる山一林組をこらせ!」1,300人少女のストライキ 1927年の労働争議(読書メモ)
参照「日本労働組合物語 昭和」大河内一男・松尾洋
「日本労働年鑑第9集/1928年版」大原社研
「あゝ野麦峠」山本茂実
「日本現代史5」ねず・まさし
1927年(昭和2年)8月30日午前10時、山一林組岡谷の三工場、平均年齢17歳の少女たち1,300人が一斉にストライキに突入した。会社は事前に工場の周囲を70余名の警官隊によってものものしく包囲し、警官隊は工場の中にも入り、サーベルの音を響かせては、寄宿舎にいる幼い少女たちを怯えさせた。しかし、彼女たちは勇敢に、ストの合図とともに、繭(まゆ)を釜の中にどんどんぶち込み、機械は回しっぱなしにして止めず、繭の糸は枠に巻きつくままほおってから、全員で工場を、寄宿舎を出て隊伍をととのえ、静々粛々と、しかし堂々とした示威行進で争議団本部前に集合した。山のような群衆が駆け付け、少女たちに大きな同情と声援をよせた。包囲する警官隊を少女たちは口々に「会社の犬」と小声でなじった。会社はあわてて就業希望者(スト破り)を全労働者に求めたが、応じたのはわずか16人にすぎなかった。
(製糸業界団体の決議)
8月30日、製糸業界団体である諏訪製糸研究会加盟の全工場主は急遽総会をひらき、「一致団結して山一を応援して絶対に勝たせる」と決議し、「山一の争議女工を一切雇用しない」と全員一致で可決した。
(全員解雇)
山一林組は、「団体交渉の確立は会社の管理権を失うことで、これは製糸業の経営を不可能ならしめ、ひいては日本産業の基礎を危殆(きたい)におちいらしむるもので、国民として許すべからざるものである」と、いかにも偉そうな声明を表明し、労働組合との話し合い自体も勿論争議団の要求を一切拒絶した。それどころか、9月2日、林今朝太郎社長は争議団代表11名と女性代表中山ひさえほか6名を本社に呼びだし、「工賃を清算するから全員工場から出て郷里に帰れ」と争議団1,300名全員の解雇を言い渡した。それまで長い間そまつの食事で長時間と低賃金で好きなだけ酷使しておきながら、労働者がそれもいたいけな少女たちが、ほんのささやかな要求をしたとたんに、これを拒絶するばかりか全員を解雇するからすぐに工場から出て郷里に帰れというのだ。この報告を聞いた少女たちはみな全身怒りにふるわせ声をあげて泣いて悔しがった。
(『冒とくだ』と会社に怒る信濃毎日新聞)
信濃毎日新聞は、山一林組の声明と全員解雇に対して「労働者というものは腕一本、身一つだけに頼るより道がない人々である。しかるに団体交渉の必要も理解もできない経営主が、おこがましくも『国民』を引き合いに出すなど冒涜するもはなはだしい」と会社をきびしく糾弾する社説を書いた。
(岡谷市民のビラ)
3日早朝、岡谷町民有志のビラが、町民のすべての家に撒かれた。「山一労働者はストをやっている。町民は何を要求するか!! ・・・山一の労働者が争議をやっているのは当たり前だ。・・われわれ町民は山一の労働者と同感だ。労働者を苦しめる資本家に町民全体で反省を促そう。・・・電燈料を三割値下げしろ、家賃三割値下げしろ、家屋税、不課税を撤廃しろ、牛馬税、自転車税を撤廃しろ。岡谷町民有志」。
(警官隊の弾圧がはじまる)
9月3日、信州交通労働組合が、二台の荷車に沢山の菓子などを積んで少女たちに差し入れに駆け付けたが、警官隊がこれを阻止しようと襲いかかり、信州交通労組の指揮者が検束された。山一林組争議では、こうした官憲による不当検束は以後何度も行われ争議団幹部全員も含め総計60余名が検束されている。警察は、幼い少女たちの声に少しの同情も、一片の耳も傾けることもなく、地元巨大製糸資本家の完全な手先となって少女たちの争議をつぶす先頭に立った。諏訪婦人同盟の「全工場の姉妹たちよ」のビラも警官隊によりたちまち没収された。
(暴虐なる山一林組をこらせ!)
9月4日「暴虐なる山一林組をこらせ!(こらしめろ!)」の大のぼり旗を先頭に立て、「労働者万歳!!」を叫ぶ大デモが岡谷の町を震撼させた。先頭には山一林組女性を中心とする1,300名。前後左右をみんなそろいのハッピを着た総同盟の他労組の組合員の男たちが少女たちを守るように行進した。その後には県下から支援に駆け付けた多くの労組員のデモが続く。女性たちは「ストライキ」と書いた小旗を手に手にもって大きな声で歌った。
おれは非道の紡績で お前は涙の林組
朝の五時から暮れるまで こき使われる労働者
労働者とてねえお前 この安月給じゃ暮らせない
栄養不良と寝不足で 肺はむしばみ目はくらむ
どうせおれらの一生は 枯れたすすきで暮らそうよ
のちの子供の世の為に 力を合わせて戦おうよ
と流行歌「おれは河原の枯れすすき」の節による替え歌を歌った。おびただしい群衆や同じ岡谷の他の会社の多くの製糸女性労働者が山となって少女たちを見学する。声援の声も挙がる。総同盟主事松岡駒吉ら本部幹部と自由法曹団弁護士も東京から駆けつけている。
(評議会・南信一般ビラまきで検束)
9月4日の夜、評議会・南信一般の労働者5名が「諏訪郡下4万の製糸労働者諸君に檄す。山一林組の争議団兄弟を見殺しにするな」というビラをまこうとして検束された。ビラの中には「一日30銭以上の食物を与えろ(実際は14銭から18銭)、寄宿舎に押し入れや天井を作れ、検番はみんなで選べ、男工にも労働時間を決めろ、最低賃金制(男一日2円以上、女1円50銭以上)を即時制定せよ、女工保護法を即時制定せよ」のスローガンと「全諏訪の製糸従業員懇談会(工代会議)」の開催が呼びかけられた。当局と岡谷の製糸資本が何より死ぬほど怖れているのが、このビラが訴えているような岡谷や長野県下の製糸工場の女工たちに争議が波及することであった。だからなんとしても評議会系のビラやオルグは阻止したかったのだ。しかし総同盟は評議会系の支援と共闘やカンパの申し入れを即座に拒絶してきた。全諏訪の資本家側が、「諏訪製糸研究会加盟」として共同戦線をはって、しかも警察、在郷軍人会、消防団、青年団、暴力団も総力で争議団に襲い掛かってきているのに、総同盟は評議会との共闘を簡単に断ってきたのだ。多くの労働者や市民は総同盟の姿勢に落胆した。信濃毎日新聞も「共闘を拒むことは、多数労働者の利益を無視する・・・製糸家が共同戦線の下に攻撃ますます急ならんとする時においておや」と総同盟の態度にあきれて非難した。
こうして岡谷では総同盟の各組合の支援はあったとしても小樽ゼネストでみられたような全地域への闘いの波及はなく、最後まで山一林組争議団の孤立した闘いに終始してしまった。
(「死しても退場はせん」籠城闘争)
寄宿舎にろう城を続ける少女たちは、のども枯れんとばかり労働歌や革命歌を歌った。寄宿舎の窓という窓には「死しても退場はせん」「ストライキ」のはり紙が大量に貼られている。
(続く)
山一林組製糸女性たちの闘い(その三) むごい組合攻撃 1927年の労働争議(読書メモ)