山一林組製糸女性たちの闘い(その三) むごい組合攻撃 1927年の労働争議(読書メモ)
参照「あゝ野麦峠」山本茂実
「日本現代史5」ねず・まさし
「日本労働組合物語 昭和」大河内一男・松尾洋
「日本労働年鑑第9集/1928年版」大原社研
山一林組、地獄のようなむごい組合攻撃
(御用新聞の卑劣なデマ記事と自警団)
争議から一週間、突然地元の「信濃民報」新聞が、寄宿舎内の争議団女性たちの風紀が乱れているというデマを「憂慮される風紀問題、白昼公然享楽市場」と大見出しで記事にしてきた。寄宿舎内で「二つの肉体」を発見したとか争議団女性たちの中が享楽の市場と化しているなどとするセンセーショナルな記事だ。小樽港湾ゼネストでも争議団幹部が闘争費用を使って女郎買いに使ったという全くのデマ記事が流されたが、資本の側の戦前・戦後を通じてあいも変わらない卑怯卑劣なやり方であった。
また、「争議団が爆弾を投げる」という荒唐無稽な流言蜚語すらも地元の御用新聞が流してきた。しかも、この流言蜚語にもとづき、7日からは平野村村長が音頭を取り消防団、青年団、在郷軍人らで自警団を組織し、林社長家族らを防衛するなどおどろおどろしく少女争議団と対峙してきた。関東大震災の時とそっくりであった。
センセーショナルな下品低劣な記事と「爆弾」記事、ものものしい自警団の登場は岡谷市民や争議団の親たちに大きなショックを与え、いっきに争議団の孤立化を招き、会社や官憲には更なる力を与え次なる争議団攻撃が準備されていった。
(警官隊の寄宿舎襲撃)
6日夜、寄宿舎で労働歌を歌っていた争議団に対し、警官隊と松本憲兵隊は工場の塀を乗り越え、寄宿舎を襲い争議団幹部の検束をはじめた。消防団も大げさに半鐘を鳴らした。総同盟幹部5名が検束され、4名が検事局送りとされた。御用新聞「信濃民報」は、これを「一千の女工乱舞・俄然暴動化」とまたまた5段抜きの大見出しで記事にして、争議団のさらなる孤立化を策謀した。
(親の強引な切り崩し)
会社はくり返し、「あなたの娘たちの風紀の乱れを憂慮する。」「父兄が来て娘を早く救いだしてもらいたい。」「あなたの娘さんを救いだすために、ご相談致したいと思います。岡谷駅に下車なさいましたら、・・岡谷警察署に頼って林組本部まで御出でください。」などと田舎の親に執拗に手紙を送りつけた。警察は全く資本家の私物となっていた。びっくりした親たちは続々と岡谷に集まってきた。会社から手厚いもてなしを受けて泣いて感謝した親は、いやがる娘を暴力的に寄宿舎からつれて帰ろうとした。最初に連れ去られた女性が出たのは、スト開始から8日目の9月6日のことであった。争議団は仲間たちに「堅く団結せよ!! あなたたちの中で一人でも弱い心の人を出したら山一一千三百の女工、岡谷四万、長間県下十五万、全国三十五万の製糸女工を殺すことになります。どうか団結を固くしてください。」と必死に訴え、親との攻防がつづいた。
(食堂の閉鎖・兵糧攻め開始)
9月11日、会社は争議団全員に寄宿舎からの退場を命じてきたが、女性たちは「死しても退場はせん」と誰ひとり応じなかった。会社は翌12日、「本日午後8時限り食堂を閉鎖する」と宣言した。糧道を断って追い払うというのだ。食堂は竹矢来で封鎖された。林役員は「そうすれば女工も皆郷里に帰るだろうとの見込みです」と事もなげに語った。
これを知った岡谷市民の中には「重大な人道問題だ」と怒った人も出てきた。争議団本部に市民から警察や会社の目を避けながら密かに荷車で白米や野菜が届けられた。争議団も「餓死闘争」を覚悟した。
(町中にはりだされた心ないビラ)
在郷軍人、青年団有志の名前で、「犬も三日養えば主の恩を忘れじ」「働け稼げ、不平不満は身を亡ぼす」「破壊は易く建設はむずかし」「製糸業地岡谷の伝統的精神を蹂躙されるな」のビラが町中にはりだされた。この心ないビラは、闘争2週間くたくたな少女たちの心をどれほど打ちのめしたか。
(工場・寄宿舎襲撃と封鎖)
12日夜の演説会に参加した争議団全員が寄宿舎に戻ろうとすると工場の周囲は竹矢来で厳重に閉ざされ、工場と寄宿舎は会社側に完全に占領されていた。寄宿舎ろう城闘争を解き、争議団全員を工場から出して演説会に参加させた総同盟オルグの信じられないほどの油断と戦術的ミスであった。6日夜の警官隊の襲撃を経験しておきながら、何故今回の襲撃を予想しなかったのか。何故更なる襲撃に備え1,300名全員による防衛戦術を準備しなかったのか。総同盟オルグには、そこまではしないだろうという会社への幻想があったのだろうか。
今や工場の中には多くの在郷軍人、消防団、青年団が居並び、大声で「恩知らず」等々と外にいる争議団をののしっている。雨が激しく降り注ぐ中、全身びしょぬれとなった少女たちは完全に工場から放逐されたのだ。総同盟の数名のオルグが工場に突入したが、たちまち在郷軍人らに袋だたきにあい、すっ裸にされ工場外に放り投げられた。消防団も岡谷全町で半鐘を鳴らす大騒ぎをし、偽銃を担いだ在郷軍人が隊列を整え、もものものしく町内を威嚇行進をする。
(「岡谷に人道はありや」)
会社は市中の店という店に命じて争議団員への味噌や米の食料の不売同盟を作らせ、また借家の提供も禁じた。同情した岡谷市民の何人かは自宅を解放して女性たちを招きいれた。幼い少女たち数十人も諏訪の「母の家」で保護された。しかし、ほとんどの女工たちは豪雨にうたれ、泣きながら岡谷の町を彷徨った。
この山一林の地獄ような呵責なきむごい組合攻撃をみた信濃毎日新聞は、「あえて問う。岡谷に人道はありや、なしや」と書いた。聞きつけた山梨県の農民代表が急遽米2俵を届けてきた。
(警察の総検束)
この夜、官憲は争議団幹部を総検挙して岡谷署の留置所にぶち込んだ。この争議を通じて、官憲は総同盟オルグと争議団60余名を検束・検挙している。総同盟女性役員赤松常子らも検挙された。総同盟や争議団とは別に評議会や労農党系の組合員もビラ配布だけで多数検束されている。
(帰郷)
組合の指導者や争議団幹部全員が検束された今となっては残された争議団員たちが会社に屈服しない道は一つしかなかった。「最後まで死を賭して闘う」という350名を残し、残り1千名の女工たち全員を帰郷させることにした。帰る者、あくまで残る者、抱き合って泣いた。母の家にも70名ほどが頑張っていた。
(争議団最後の声明「私たちは絶望しませぬ」)
9月17日、最後まで残っていた47名もついに泣きながら岡谷を後にした。野麦峠を越える者もいた。
「私ども18日間の努力もむなしくついに一時休戦のやむなきにいたりました。私どもの嘆願はかほどにまであらゆる権力で迫害されねばならぬものだったでしょうか。夜を日について糸繰る私どものわずかな嘆願は資本家と官憲とが袋だたきにせねばならぬものでしょうか。私どもの正々堂々の争議のどこに内乱を取締るがごとき取締る必要があったでしょうか。私どもは泣きました。泣きながらはじめてこの社会の虚偽を深刻に知ったからであります。強気をくじき弱気を助くる日本人の義侠心は少なくとも岡谷ではほろびました。しかしながら私どもは屈しませぬ。いかに権力や金力が偉大でありましても、私どもは労働者の人格権を確立するまではひるまずたゆまず戦いを続けます。私どもは絶望しませぬ。最後の勝利を信ずるがゆえであります。終わりに私どもを激励し援助下さった多くの人々に対し厚く感謝します。なお資本家官憲諸氏に対しては人として国民として、人間を解し真に恥を知られるよう勧告いたします。
昭和2年9月17日
山一林組争議団」
ー敗北直後の信濃毎日新聞記事ー
「女工たちは、繭よりも、繰糸枠よりも、そして彼らの手から繰り出される美しい糸よりも、自分達の方がはるかに尊い存在であることを知った。彼らは人間生活への道を、製糸家よりも一歩先に踏み出した。先んずるものの道の険しきがゆえに、山一林組の女工たちは、製糸家との悪戦苦闘ののち、ひとまず敗れたとはいえ、人間の道がなお燦然たる光を失わない限り、しりぞいた女工たちは、永久に眠ることをしないだろう」(信濃毎日新聞1927年9月22日記事)
以上