吉野作造と関東大震災の朝鮮人虐殺
1923年10月20日、吉野作造と堀江帰一は、山本権兵衛首相、後藤新平内相、平沼騏一郎法相、岡田忠彦家警保局長宛てに下記の決議文を提出した。
決議
1、朝鮮人の陰謀並に朝鮮人と主義者との通謀の有無に関する調査事項を公表すべき。
2、前記事実の如何に拘らず朝鮮人殺傷の不祥事を発生させた流言をあくまでその出所を糾明し、その責任を明かにすべき。
3、流言の横行を取締らず民情の激情の暴行を放任したことについて、当局はその責任を明らかにすべき。
4、朝鮮人死傷者数、被害の場所並に被害の状況を出来るだけ詳細に公表すべき。
5、目下保護中の朝鮮人をできるだけその希望に応じ帰国の便を図る等便宜の処置を執るべき。特に負傷者に対しては、相当の手当をして遺憾なきを期すべき。
6、朝鮮人殺傷の犯罪に対して法を厳正に適用すべき。
7、速に本件に関する言論自由の禁令を解除すべき。
(中央新聞1923・10・22)
田澤晴子著『吉野作造 人世に逆境はない』(ミネルヴァ書房刊)によると、吉野作造は、震災後の問題を学識者、政治家らが協議する「二十三日会」(改造社主催で9月23日発足)に参加し、朝鮮人虐殺問題を発議した。そして、10月8日、事件に対する政府の責任を問う決議を行い、20日には上の決議文を持って首相、内相、法相のもとを歴訪した。さらに、虐殺された朝鮮人2613人という「罹災同胞慰問班」の調査結果の詳細を、吉野自らの名を冠して『大正大震火災誌』(改造社刊)に掲載しようとしたが、内務省から発表を禁じられた。吉野は原稿を製本し、表紙に「圧迫と虐殺」と書き込んだうえで「内務省より公表差留められた(大部分)に付後日の参考までに」と記して保存した。
また、吉野は『中央公論』1923年(大正12年)11月号に「朝鮮人虐殺事件に就いて」を発表し、日本人は朝鮮人に謝罪すべきだとしてこう述べている。
〈かくして無辜の鮮人の災厄を被ったものの数は非常に多い。罪なくして無意義に殺さるゝ程不幸な事はない。今度の震火災で多くの財と多くの親しき者とを失った気の毒な人は数限りもないが、併し気の毒な程度に於ては、民衆激情の犠牲になった無辜鮮人の亡霊に及ぶものはあるまい。今度の災厄に於ける罹災民の筆頭に来る者は之等の鮮人でなければならない〉
(感想)
私たちの労働運動自身が戦争協力、侵略戦争に加担してきたとんでもない犯罪的歴史がある。関東大震災時の朝鮮人虐殺に対する日本労働総同盟の姿勢も今こそ問われなければならない。もし、あの時、日本労働総同盟やすべての労働組合や無産政党や賀川豊彦らリーダーが吉野作造に習い、「朝鮮人・中国人虐殺糾弾」を最大のテーマとして全国で、また世界に向かって断固として、総力を挙げて米騒動を上回る決意で闘いの火ぶたを切り、<暴露に次ぐ暴露で>と<ストライキ>で支配者を追い詰めていたら、日本と朝鮮の民衆は呼応しなかったであろうか、世界の労働者民衆は支持しなかったであろうか。その後の侵略の歴史はどう展開しただろうか。なにより日本労働者階級自身の教育と自覚にどう役立っていただろうか。
今、現代の労働運動の現場にいる私たちは、大先輩のこの姿勢を真剣に学んでいきたいと思う。