1927年11月の藤田農場争議で大阪へ押しかけた10名の女性たち
地主藤田男爵邸応接間に座り込む
男爵邸応接室に座り込む女性たち! 藤田農場小作争議 1923年主要な小作争議③ (読書メモ)
参照
「労働年鑑」第5集/1924年版大原社研編
男爵邸応接室に座り込む女性たち! 藤田農場小作争議
岡山県児島郡藤田村の藤田農場は政商藤田組により1899年から干拓された農場の一つで,過酷な小作契約のもとに入植者を募集し,22年には農場の耕地1287町歩,小作農439戸に達した。農場の経営は直営,耕作請負,小作農に分かれ,農民は一般に会社の農舎に住み,債務奴隷的な状態におかれていた。1921年(大正10年),会社が肥料代貸与を中止したことを契機に小作争議がおこり,以後1921年8~12月,22年10月~23年5月,25年1~6月,27年12月~30年6月と争議が頻発した。
1921年、22年と続く藤田農場の小作争議は、23年にはいよいよ紛糾した。地主側が収穫した稲を山積したまま放置し農民に脱穀させないため、農民側の生活は日に日に窮迫し、日本農民組合邑久上道聯合会から玄米百俵の融資を受けて一時をしのいだ。
しかし、1923年(大正12年)1月4日、耐えかねた農民は一斉に脱穀機を持ち出し、脱穀をはじめた。農民の脱穀をやめさせようと地主側による岡山地裁の「立ち入り禁止処分」がだされ、多数の警官隊が農民に襲い掛かった。農民は日本農民組合や日本労働総同盟の支援を受け多彩な戦術を駆使し頑強に闘ったが、農民44名が検束された。1月11日、福田村中央公会堂で「藤田村小作争議批判演説会」が開かれ、農村伝道牧師で日本農民組合の杉山元治郎(1926年労働農民党設立時の中央執行委員長)と総同盟の鈴木文治らが熱烈な演説をした。
藤田組は、16日、取調べ中の7名の小作農民に対して、耕地立ち入り禁止の仮処分を強行し、農民の田畑に「耕地へは立ち入り禁止」の板礼を立てた。耕地のロックアウトを断行したのだ。その他73名の小作農民に対しては、脱穀は会社が行うと通知した。17日、賀川豊彦、杉山元治郎は大阪の藤田組本社に出向き、仮執行の強行に激しく抗議した。
強制仮執行が近づいた。農民たちは男女とも不眠で寒い夜、仮執行予定の田畑に、かがり火を焚いて物凄い戦闘体勢を引いた。藤田農場小作争議の形勢急なりと、多くの日本農民組合員が警察の厳しい警戒網を突破して東京・大阪・全国から続々と乗り込んできた。警察からの圧力も強まったことで農民の男の中には動揺する者も出てきた。しかし、かえって女の方は意気もすさまじく、亭主の弱腰を叱咤激励する有様であった。この女性たちは17日未明に農場長の自宅に押しかけて動かなかった。警察署長と農場の調停が成り立ち、20日午前6時から脱穀開始が決まった。20日、いよいよ脱穀の日である。夜を徹してかがり火を焚いていた農民たち70戸200余名は喚声を挙げて一斉に出動した。女性たちも全員これに参加した。脱穀が始まった。しかし、ここにおいても農場側は脱穀した6割5分の農場側取得を主張し、これを拒否した農民たちに再び脱穀中止を申し入れてきたため、農民たちはすぐにデモをはじめ、大曲など近辺の村から多数の応援を得た農民は実力で脱穀を開始した。これを阻止しようとした会社顧問が農民に殴打され、農民側4名が検束された。
同夜岡山劇場で農場批判演説会が開催され、杉山、賀川らが演説をした。21日怒りの頂点に達した農民たちは20台の脱穀機を牛車に乗せた示威行列であくまで脱穀すると農場に迫った。女性たち10名は夜中の汽車で大阪へ向かった。22日、20台の脱穀機で一斉に脱穀が始まった。脱穀した米を運ばせまいとする警察との緊迫した攻防も続いた。
一方大阪についた女性たちは10名は同日朝、男爵藤田邸に着いたが、男爵夫妻が不在と聞いて、男爵夫妻が帰るまで待つと応接室に座り込んだ。23日には藤田本店に押しかけ、夜は中央公会堂で開催された藤田組農場争議批判演説会の壇に立った。
5月ようやく「土地の分譲」問題など農民側の主張が大幅に実現して1923年の藤田農場小作争議は一旦は解決した。しかし、以後の25年1~6月,27年11月~30年6月と争議は起きた。