写真・土地取り上げ絶対反対(年・場所不明)
熊本県八代郡築村小作争議 1923年主要な小作争議② (読書メモ―「労働年鑑」第5集1924年版大原社研編)
熊本県八代郡築村小作争議
熊本県八代郡築村。争議発生は1922年(大正11年)、23年4月に再燃。同地の小作農家430戸。土地の全部が八代郡用地であった。農民は苦しい生活に泣いていたが、今までは土地が個人地主の所有物ではないことで、小作農民の決起には条件は不利であった。しかし、1922年築村の農民は結成間もない日本農民組合に駆け込み、八代郡に対して「小作料3割減」を要求したが合意にはいたらなかった。
4月18日、日本農民組合福岡農民学校長の高崎正戸が、同村に乗り込み日本農民組合支部結成を呼び掛けた。数日にして4割の小作農民が加盟に賛成し、27日には同村降法寺に集合して以下の決議をし、翌日須藤八代郡長に提出した。
一、大正11年度の小作料は5割減とすること
一、大正12年以降5か年間は土地を無料にて使用させること
一、所有権を地主3割小作人7割と分割すること
4月29日降法寺にて演説会、5月4日八代町蛭子座の農村問題批判演説会ではキリスト教牧師で前年1922年に結成された日本農民組合の組合長の杉山元治郎が演説をした。同7日には小作側の婦人連500名は午前9時に集合し、10本の旗を押し立て郡役所に押し寄せて郡長と面会し生活の窮状を訴えた。そのまま高等女学校に押しかけて「この学校は私たちの小作料で出来た学校なので、私たちを救ってください」と叫び、女学生たちを驚かせた。
同郡宮地村の水平社社員数百名が小作側の応援に駆け付け、たちまち問題が大きくなった。
5月11日熊本県が警察犯処罰令で弾圧を開始した。
一、ゆえなく他人の業務に干渉し、又は紛議に干渉・煽動した者
一、多数で交渉・煽動した者
一、小学生生徒を同盟休校をさせ、または勧誘した者
そして、福岡農民学校長の高崎正戸に、直ちの退去命令を下した。翌、12日夜、四宮警察署署長が村に来た農民を集め訓示をし脅した。
一方で6月22日八代郡は突如、小作農民に対して、「土地明け渡しと賃貸し料未納の債務執行」訴訟を起こしてきた。農民側は、26日夜熊本市公会堂で郡築村小作争議、郡批判演説会を開き、日本農民組合と大阪自由法曹団が出演した。
収穫期がきた。郡は稲の差押さえを強行した。しかし、この差押さえは見事に失敗した。というのは、農民は急遽総動員して稲全部の刈り入れをして処分してしまったのだ。また農民組合青年部を組織し、ますます結束を強めた。10月2日は賀川豊彦も来村し八代町で争議応援演説会を開催した。
須藤郡長が辞職したが、怒った農民は須藤宅に押し寄せたので、この時数名が警察に告発された。事態はいよいよ紛糾した。郡当局は追い詰められ、ついに日本農民組合本部に調停を依頼したのであった。12月4日から両者の協議が始まったが、年を越した1923年(大正12年)4月に争議は再燃し、いまだ合意には至っていない。