・三菱生野鉱山争議スト(罷業)参加者数1925.5.4
三菱鉱業生野鉱山260名強固な団結で12日間のストライキを闘い抜く 1925年の労働争議 (読書メモ)
参照 協調会史料(三菱鉱業株式会社生野鉱山労働組合組織並ニ争議ニ関スル件)
三菱鉱業生野鉱山争議
兵庫県の三菱財閥の生野鉱山(男662名、女99名)。1924年(大正13年)11月頃より、各地の鉱山で争議を経験した労働者が生野鉱山に潜入し密かに待遇改善と同志の覚醒を訴えた。1925年2月、共鳴する労働者は104名とたちどころに増え、日本労働総同盟神戸聯合会と結びつきを強めた。3月には生野鉱山組合員は日本総同盟大会に出席して傍聴、見学した。3月22日約170名で生野鉱山労働組合ができた。
(三菱の御用組織結成)
狼狽した三菱生野鉱山はあわてて組合を壊滅させようと急遽御用組織「共栄会」を作ってきた。共栄会の規定では、生野鉱山労働者全員を強制的に加盟させる、しかも共栄会を除名された労働者は鉱山側が解雇する事になっていた。会社は共栄会に2千円を基金として提供し、4月のお祭りにも千円を寄付し、その金で相撲その他の余興費用に充てさせた。また、職場の職制、在郷軍人団幹部、青年団幹部を使いあくまで組合結成を阻止しようとしてきた。
しかし、約170名労働者はますます団結を強め演説会を開催し、神戸聯合会所属の神戸合同労働組合に加盟した。また同じ三菱系統の生野支山明延鉱山(374名)の労働者の中にも飛び火するのではと会社はとても動揺した。
(三菱4名の解雇)
4月11日三菱生野鉱山側は、組合結成の中心人物であり、かつ思想上要注意人物と目していた4名の鉱山労働者を解雇してきた。組合員は急遽聯合会に助けを求め、鉱山糾弾演説会を連続して開催した。
(組合結成を呼び掛ける連続演説会)
4月12日午後8時20分、250名労働者が集まり、組合結成を呼び掛ける演説会が開催された。弁士が次々と資本主義制度のもとにおいては労働者の団結が絶対に必要だと力説した。また、その場で呼びかけられた運動費カンパに、会場からたちまち20円50銭が寄せられた。また生野町民から立ち上がった鉱夫側に対し大きな同情と支持が寄せられた。鉱夫側は会議用に事務所も開設した。
演説会の発言
「資本家を養う労働者 奥田宗太郎
今回生野鉱山において労働者が総同盟に入り、また、組合ができたということは実に喜ばしい。今日まで生野鉱山に組合がなかったことは、いかに労働者の頭を押さえていたかということである。
労働者一人の不幸は全国労働者の不幸の不幸である。また、一人の幸福は全国労働者の幸福でなければならない。地下数百尺の坑道に這いつくばって、命がけで働いている労働者諸君が、人並みの生活、人並みの教育、また病気の手当も録に支給されないのは何故なのか。会社役員社宅と労働者のみじめな住宅との差別は何故なのか。資本家と対等となるため労働者は団結の力を持つしかない。・・・」
組合参加を呼び掛ける演説会は、4月13日(約200名)、14日(約30名)にも開催された。
(町民向けビラ)
4月13日の町民生野町民に訴えるビラ6千枚が町中で配布された。
「生野六千の町民諸君に訴う
我が日本労働総同盟神戸聯合会は鉱夫諸君並びに町民諸君の幸福な繁栄の為に左記の通り加入申込所を設置しました。
労働組合は人格の向上、知識の開発、生活状態、労働状態の維持改善をその直接の目的とすると共に人類共存共栄を理想とする労働者の団体であって、この正義の運動が今では単に労働者だけの運動ではなく全人類の運動となりつつあることは、すでに諸君の知るところであります。七百鉱山労働者がいかに過酷悲惨なる労働生活に苦悩しつつあるかは、すでに熟知しておられる町民諸君に対して、我らは多くは言いません。 我らはただ諸君の正義の心に訴え、今や悪戦苦闘している七百人鉱山労働者とその家族のために深き同情と熱烈なる援助を贈って欲しい。
町民各位
大正14年4月13日
日本労働総同盟神戸聯合会神戸合同労働組合、加入申込所」
(生野鉱山労働組合発会式)
4月25日には正式に生野鉱山労働組合発会式を挙げ、以下の要求を決め、26日に会社に提出し同時に267名がストライキに突入した。
要求書
一、本労働争議においてはいかなる名目による解雇者は出さない事
二、4名の解雇者を復職させる事
三、配給所を撤廃し、本番賃金の5割昇給する事
四、請負制度では直番の時は、金1円80銭を最低賃金とする事
五、金定料を金50銭とする事
六、8時間労働制を実施する事
七、解雇手当と退職手当制度を制定する事
八、「ヨロケ病」を職業病として認定し、公傷と同一待遇とする事
九、公休日には従業員とその家族に対し安いコメを売る事
十、株式会社になった時に与えられた2◎円は、利子などを計算して全部を従業員に払い戻す事
十一、公傷による入院者には、一日の入院につき平均賃金一日分とその介護する家族に対して一日60銭を支給する事
十二、鉱山風呂は従業員とその家族には無料とする事
十三、住宅の改善
イ、衛生設備を完全にする事
ロ、畳代を全廃にし会社の負担とする事
ハ、畳全部を調査の上取り替える事
ニ、社宅に住んでいる者に対して、町税その他一般税金を会社負担とする事
十四、坑内電車用電流線は規定通りする事
十五、坑内軌道と人道は別にする事
十六、坑内非常用道路を改善する事
十七、五井の立抗の一般的設備を改善する事
十八、4、5、7、9、11、13番と各抗の空気の流通を計る設備を完全にする事
4月26日からストライキを敢行した組合側267名は、神戸聯合会の後援・指導のもと坑内労働者の結束を強め、運動会・会社糾弾演説会を開催した。5月1日メーデーを、地元で堂々たるデモを敢行し、目的貫徹のために突進した。
職場の仲間向けのビラ(1925年4月26日)
「従業員諸君に訴ふ
吾々は生きる為に、横暴なる会社に対抗してこの日よりストライキを決行しているのだ。
兄弟よ! 他人の事と思うな。昨日君らが傷病になやむ時、又君らが解雇せらる時、君らが廃人となった時の会社の態度を見よ!
兄弟よ 他人のことではではない
君らのためだから我らと共に団結せよ!
争議団本部に来い!
そうして争議に参加せよ!
万国の労働者団結せよ!」
職場の仲間向けのビラ(1925年4月28日)
「団結の威力を知れ! 仕事に行かんとする兄弟!
俺達が団結して2日手を休めたとき、そこに大きな力が現れた。見よ、会社の狼狽ぶりを。狩り集めの監禁、買収、なんという奴だ。会社がいかほどうまい事を言うのは永く続くものではない。一時的なものだ。少し考えてくれ。
親愛なる兄弟諸君!!
共に栄え、共の幸福の為には共に永い今後の為に手を握ろうではないか。俺達が今度もし勝ったなら諸君も良くなるのだ。共に手を取り合っていこうではないか。
仕事に行く前に良く考えてくれ
大正十四年二十八日 争議団本部」
会社は御用組織「共栄会」を使い、また、出勤する者には、1円50銭で買収するなどストライキ労働者の切り崩しに腐心した。
4月27日争議団は、朝6時半から一般労働者の入坑をさせまいと試みるが、会社側と官憲によって阻止された。午後2時からは生野公園で運動会を開催を予定したが、これも中止となった。
5月1日メーデー挙行。争議団本部に集合した250名は、7班に分けたデモ隊にそれぞれ隊長を付け、正午に生野労働組合旗を先頭に押し立てた各隊は15分毎に争議団本部を出発した。鉱山前、本通りと進み、公園でメーデー集会を開催した。各地の労働組合からの激励挨拶や生野鉱山争議団の固い決意が述べられ、再び堂々と往路を引き返し午後4時に争議団本部に到着した。
5月2日演説会200名
(強固な団結)
会社の記録(上の写真)によるとストライキ参加者は5月3日は258名(スト破り130名)、4日は242名(同140名)だ。スト参加者の方が多いことがわかる。スト決行以来の会社側の激しい組合切り崩しにも関わらず争議団の中からの脱落者やスト破りの裏切りが少ないことも示している。欠勤者を合わせると実際のスト参加者は、当初よりむしろ増えてさえいる。生野鉱山労働者の驚異的な素晴らしい団結といえるのではないか。
(スト終結)
ストライキ12日目に町長と町の有力者の調停のもと5月7日午後7時半、町の公会堂において会社と組合は以下の内容で合意しストライキを終結させた。
合意内容
一、坑夫に今後10日間作業奨励金として男50銭、女30銭、子供20銭を支給する
一、解雇手当金は鉱山がすでに発表している額以外に金一封(600円)を見舞金として町有志から贈与する
一、解雇手当規定はかなり早く改正する
一、解雇手当規定改正以前に馘首された者には今回の解雇手当に準ずる解雇手当の他に金一封を贈与する
一、各種施設の改善は漸次行う
一、生野労働組合解散のために生ずる損害費用と家屋渡費として鉱山より金1千円贈与する
一、労働組合の徽章を着け鉱山内に出入りしない事
声明書
一、生野労働組合並びに争議団は無条件にて即時解散する
一、鉱山在籍者は速やかに復職就業する
一、鉱山は今回の罷業を理由として解雇しない
大正14年5月7日
(生野町民商家大会が三菱生野鉱山向けに決議文)
5月9日、生野町商家大会より争議解決後の会社の巻き返し、組合員への復讐やいじめを心配する以下の警告が提出された。
「決議文
生野鉱山対職工の争議は一般の町民の身心をも不安にさせた。幸いにして円満な解決をしたと聞き、大いに喜ぶと共に、将来再び不祥事が起きるのではないかと心配している。その時の責任は事業者たる三菱生野鉱山が負うべきであると警告する。
大正14年5月9日 生野町民商家有志大会」