大杉栄家族殺害・甘粕正彦憲兵大尉公判(1923年12月)
1923年の主な出来事(読書メモ)
参照
「社会・労働運動大年表 Ⅰ」大原社研編 労働旬報社
「日本労働運動史年表第一巻」青木虹二
「日本労働組合物語 大正」大河内一男・松尾洋
在日朝鮮人数急増(1月~)
1910年の日韓併合(朝鮮植民地化)以降の土地調査事業などで土地を奪われた朝鮮の農民の植民地本国である日本への流入が進んだ。特に前年1922年12月から渡航証明書が不要になってから渡航者数は急増した。在日朝鮮人の数は、22年には9万741人、23年には13万6557人であった。かれらの就労は主に炭坑、荷役、土建など低賃金・長時間労働の現場であった。しかも不景気になると同じような低賃金現場で働く日本人労働者が失業の恐怖で、かれらを反目する時もあった。
中国2.7事件(2月)
中国における労働運動の高揚に呉佩孚支配下の北京政府は、京漢鉄道での鉄道労組結成を軍隊による武力弾圧した事件。労働者死者40余人、負傷者300余人に達した。その後弾圧は各地に拡大した。中国労働運動は後退した。
三悪法反対運動(2月)
①過激社会運動取締法案、②労働組合法案、③小作争議調停法案の三法案に反対する運動で、山崎今朝弥弁護士や平沢計七の呼びかけでアナ・ボル両派が共同戦線として「(三悪法反対)全国労働組合同盟を結成した。学生らも決起した。全国各地でデモをもって闘われたが、特に2月11日には、全国(東京・大阪・京都・名古屋・飯田・八幡等)で大きな反対集会とデモを行った。東京では芝浦に5千人の労働者・農民が集まり、大会ののちデモを敢行した。千葉野田でも2千名が江戸川堤に集合し、市内一巡デモを行った。大阪では中の島公園から天王寺公園まで、大阪朝鮮労働者同盟会や向上会の女性労働者も参加した4千人がデモを行った。京都では労働組合と水平社共催の集会が開催され、集会後に労働者500名と警官隊が衝突して12名の検束者をだした。八幡でも大きなデモがあり、浅原健三らが右翼団体に襲われ重傷をおわされている。前年には見られなかった盛り上がりをみせ政府を追いつめた。アナ・ボルで大きく分裂していたこの時期の労働運動の大半の結集が実現した意義は大きかった。
普選即時実行の大デモ(2月)
東京で普通選挙即時実行を要求するデモに3万人が参加。
失業者の大デモ(3月)
失業者懇談会の名のもとに、東京飛鳥山で失業者の大デモが行われた。大阪では失業者大会が開催。
国際婦人デー(3月)
日本最初の婦人デーは世界共通日3月8日に、<種蒔き社>主催で開催され、神田の青年会館は超満員であった。右翼団体が暴力的に妨害して40分で解散させられた。
工場法改正公布(3月)
3月30日工場法改正が公布された。主な改正点は、①法の適用工場を職工15人から10名へ、②保護職工年齢範囲を15歳から16歳未満に拡張したこと、③保護職工の労働時間を12時間から11時間に短縮したこと、④深夜業禁止の猶予期間を本改正後3年間に改めたことなどであった。
全国水平社と右翼の武装大乱闘(3月)
奈良県磯城郡の都村で全国水平社と右翼団体1500人が互いに武装して大乱闘、数十人が負傷した事件。のちに警察の調停で和解。
レフト(3月)
共産党労働組合部発起の創立協議会が、①全国の労働運動の左翼分子を結集し、②アナ系の自由連合主義派を排除し労働運動のボルシェヴィキ化をはかり、③プロティンテルン(国際赤色労働組合同盟)に加盟する左翼労働組合を作る目的で結成された。6月には機関紙「労働新聞」を創刊した。
中央職業紹介事務局(4月)
内務省に中央職業紹介事務局が、東京・大阪には地方職業紹介事務局がそれぞれ設置された。
日本共産青年同盟(4月)
コミンテルンの指令を受け、日本共産党第2回大会(1923年2月4日)の党議に基づき4月上旬に結成した。委員長川合義虎。
防援会(4月)
社会運動犠牲者の救援を目的に、鈴木茂三郎、猪俣津南雄らがアメリカ共産党の組織を参考にして創設した。山崎今朝弥弁護士や布施辰治弁護士ら多くの人を組織した。しかし、関東大震災で閉塞状態となり、1928年解放運動犠牲者救援会結成から本格的に活動した。
第4回メーデー(5月)
5月1日第4回メーデーが全国11都市で開催され、決議、(1)対露通商即時開始、(2)土地の社会化、(3)連合国対独賠償放棄。
小作制度調査会(5月)
小作制度に関する諮問審議機関。農商務大臣を会長として官民で構成された。
社会主義インターナショナル(5月)
第一次大戦後に再建された第2インターの後継組織。書記局はロンドンにおかれイギリス労働党の影響が強まった。
早大軍研事件(5月)
5月10日、陸軍次官出席で開催された早稲田大学軍事研究団発会式は、反対する早稲田大学生、文化同盟らのヤジと怒号が埋め尽くした。学生は「早稲田を軍閥に売るな」のビラを学内に貼りめぐらせた。12日には4千名学生の学生大会が敢行され、この会場に右翼学生が襲撃した。この事件を理由に文化同盟解散、後の共産党弾圧とつながった。
第一次共産党事件(6月)
6月5日未明、警視庁特高課百数十人が非公然組織の日本共産党員の一斉検挙を行い、堺利彦、市川正一、徳田球一、野坂参三、渡辺政之輔ら約80人が検挙され、治安警察法違反で29人が起訴された。
ブルガリアのクーデター(6月)
ブルガリア農民同盟政府に対し、国王側近派軍人によるクーデター。
奥村電機争議(7月)
京都の奥村電機商会(800人)の友愛会支部は1919年の第一次争議で壊滅したが、1923年総同盟電機工組合が奥村電機に組織され、7月、27人の解雇に反対しストライキに突入した。会社側はロックアウトで対抗し、権力側は争議団のデモに騒擾罪を適用し、スト労働者を総検束するなど激しい弾圧体勢で臨んだ。解雇手当支給で終わった。
関東大震災(9月)
9月1日日本史上最大の被害をもたらした関東大震災が勃発した。死者行方不明者14万1079人、負傷者10万3513人、家屋消失35万戸弱、全半壊20万戸、その他被災者287万余人の大災害であった。新聞は「帝都崩壊」と報じた。
朝鮮人・中国人大虐殺事件(9月)
関東大震災。首都圏に9月2日戒厳令をだした政府は警察や軍の主動で各地に自警団を組織した。民衆の不満が当局に向かうのを避けるため、意図的に朝鮮人が暴動を起こしているなどの全くデタラメな「流言蜚語」を流し戒厳令をだした。その結果自警団らは朝鮮人や中国人を補らえてはリンチを加え虐殺し、その数は数千名に及んだ。
亀戸事件(9月)
9月3日、戒厳令下で亀戸警察署は南葛労働会の活動家川合義虎ら8人と純労働組合の平沢計七ら2名を検束し、亀戸警察署内で習志野騎兵聯隊によって殺害した。戦闘的労働運動壊滅を目的とした白色テロであった。この時署内では朝鮮人・中国人多数も殺害された。労働運動最左派への虐殺白色テロで動揺した総同盟本部において10月には早くも方向転換の主張が出てきた。
大杉栄家族虐殺事件(9月)
9月16日、東京憲兵隊の甘粕正彦大尉は、麹町の憲兵隊本部で大杉栄38歳・伊藤野枝29歳夫妻と甥の子供6歳を殺害した。甘粕は軍法会議にかけられ懲役10年の判決を受けるが、わずか3年で出獄したのち政府の費用でフランスに3年間滞在し。そののち満州で権勢をふるった。大杉一家殺害はアナーキズム系の労働運動を壊滅する明白な目的を持っていた。以後組織としてのアナーキズムは、解体のみちをたどった。直接行動を主張するサンジカリズムも衰退させられた。
朴烈・金子文子事件(10月)
朴烈・金子文子は9月に検挙され、10月20日治安警察法違反で起訴され翌年爆発物取締法違反で追起訴。まもなく天皇と皇太子襲撃の大逆計画があったと大逆罪で起訴され、26年死刑判決が下された。二人は恩赦で無期懲役とされたが、文子は獄中で自殺した。
被災労働者の救済運動
大震災で多数の労働者が家を失い失業した。総同盟を中心に被災労働者の救済運動が取り組まれた。総同盟は全国に救援の呼びかけを行い、関西からは賀川豊彦らが上京し救済運動に尽力した。鈴木会長は内相後藤新平と直接交渉して1千名労働者を救済物資の荷揚げ仕事に使ってもらうことを取り付けた。
東京聯合婦人会(9月)
関東大震災救援を契機に9月28日43団体で組織された。24年に第一回大会が開催され、山川菊枝らの社会主義婦人も参加した。授産部・婦人参政権・公娼廃止・婦人労働問題など幅広く活動した。
内閣普選断行声明(10月)
第二次山本内閣は、普選実施に積極的姿勢を示し普選構想を公表した。関東大震災と三大虐殺など白色テロ大弾圧であるムチに対するアメ、民衆の怒りや普選運動に決起した民衆の盛り上がりと拡大に対する譲歩・けん制の側面もある。
政治問題研究会(12月)
山本内閣の普選構想の公表は、社会運動の反議会主義の方向転換の契機ともなり、労働運動家と知識人で組織。総同盟が議会対策委員会を設置し無産政党構想が展開された。
虎ノ門事件(12月)
相次ぐ権力の白色テロに対して血の復讐を叫ぶアナーキストは、ギロチン事件などを企てる。12月27日難波大助は皇太子を狙撃した。命中はしなかったが、難波はすぐに逮捕され大逆罪で死刑となった。山本権兵衛内閣は責任をとって総辞職した。
朝鮮、岩泰島小作争議(12月)
朝鮮で結成された岩泰島小作人会は、地主側に小作料の減額を要求したが、地主側が頑強に拒否したため大きな争議となった。小作人幹部の逮捕に抗議した農民は、幹部の即時釈放を要求して木浦警察署や検事局へのデモを展開し、最後は全羅南道知事との交渉で小作料減額と逮捕者の釈放を勝ち取った。