先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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《惨として敗残の夕陽を浴びて立つ》「日本労働年鑑」第五集/1924年版『緒言』より (読書メモ)

2022年01月07日 07時00分00秒 | 1923年の労働運動

《惨として敗残の夕陽を浴びて立つ》「日本労働年鑑」第五集/1924年版『緒言』より  (読書メモ)

はじめに思うこと
    いよいよ「1923年」です。
 大原社研の「日本労働年鑑」第五集/1924年版は、冒頭の『緒言』で1923年(大正11年)の労働運動について、「大正11年が孵化した『失業』というヒナは、本12年がこれを健全(?)育成することに成功した。極めて強健に発育した『失業』の鶏は・・・労働運動の萌芽を咬みいってしまった。・・・頻発した労働争議が、・・その帰結において一体に鈍重の色調を帯びたものであったことは言わずもがなである。工場閉鎖または待遇条件の改悪という資本家階級の挑戦に因を発した争議が驚くべき多くの割合を占め、それに対する労働者階級の戦術が盟休怠業より示威運動へとより多く傾いてきたことは、当然の表れであって労働者側の旌旗、惨として敗残の夕陽を浴びて立つ有様であった。労働祭に掲げられた標語の中に『失業防止の徹底』があったことほど、12年の労働運動は地味な、しかも沈痛なものであった。」と総括し、前年1922年に続く23年も敗北に次ぐ敗北の労働争議を、資本家側の大量失業や工場閉鎖攻撃により、労働者側が争議の主導権を奪われ、その結果「ストライキができず、示威行動が増えた」防衛的戦術へと追い詰められことをあげています。
 続いて、同じく前年22年から全国で頻発した小作争議も、その戦術が「小作地返還より不作同盟へ、不作同盟より不納同盟へ」と移行してきたことを「夢魔の圧迫」として憂いています。しかし、労働運動も農民運動も全国的、系統的、合理的に発展してきていること、普選運動の大衆闘争が無産階級の中で都市や農村で爆発してきていることを強調しています。 
 政府の労働者農民対策を「無策の一語」と厳しく非難しています。
 また、1923年は労働運動の二大潮流(総同盟と反総同盟)がついに分裂、互いに絶縁を声明した年であったといいます。

 さて、この『緒言』では全く触れられていませんが、1923年は、9月1日の関東大震災、朝鮮人・中国人虐殺とそれに続く亀戸事件、大杉事件など支配者による三大虐殺という労働運動、社会運動への大弾圧のあった年です。しかも9月1日の関東大震災だけがこの大弾圧を生み出したわけではありません。朝鮮侵略を推し進める一方、前年には「過激社会運動取締法案」を国会に提出し、「普選法案」を否決し、「水平社」への弾圧姿勢を強め、全国の労働運動・農民運動への残酷非道の弾圧、大量検挙などを行い、そして大震災の数か月前の6月には警視庁特高課110数名による第一次共産党員一斉検挙を行っています。もともとの支配者階級の本性の爆発が1923年関東大震災の三大虐殺なのです。その結果が、労働運動が《惨として敗残の夕陽を浴びて立つ有様》なのです。「日本労働年鑑」第五集/1924年版」を執筆した諸氏は、この誰でも知っている事実を書かなかった、書けなかった上で《惨として敗残の夕陽を浴びて立つ有様》と書いています。

 これから、「日本労働年鑑」第五集/1924年版 大原社研編を読むにあたり、この三大虐殺、歴史上かつてない権力の大弾圧をくれぐれも意識して読んでいきたいと思っています。



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