未組織労働者の決起と地域共闘を目指す「工場代表者会議」運動と官憲のなりふり構わない弾圧 1927年の労働運動(読書メモ)
参照「工場代表者会議運動の戦術」パンフ 1928年評議会発行
https://lab.ndl.go.jp/dl/book/1456043?page=1
「日本労働組合物語 昭和」大河内一男・松尾洋
「日本労働年鑑第9集/1928年版」大原社研編
「日本労働組合評議会の研究」伊藤晃
「日本現代史5」ねず・まさし
1、資本のアメとムチ
1927年評議会は健康保険料の資本家全額負担を要求して、全国68争議が闘われた。https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/0e44790abcf5cf7e9b9bcab1dbbfe326
盛り上がった健康保険争議に対して、内務省は「一定賃金を上げてその中から保険料を出せばいい」と労働者側に一定の譲歩をした。アメである。その一方で官憲は、評議会の先鋭労働者を徹底的に弾圧し、一般労働者の動揺と分断をはかった。官憲は、評議会の争議団の総検束を再三繰り返してきた。また会社が雇った暴力団もたびたび襲ってきた。争議団に対する解雇の嵐も吹き荒れた。この健康保険争議を敗北させた主要な力は警察力であった(伊藤晃)。27年の争議に伴う解雇者は実に9324人(25年7210人、26年10112人)、争議に伴う警察による検挙者は710人(25年331人、26年993人。行政執行法による検束者はこの中には含まれていない)となっている。文字通りの暴虐の嵐であった。
2、未組織労働者の決起と地域共闘を目指す「工場代表者会議」運動
1927年4月28日、評議会は「全労働者は、即時工場代表者会議に集まれ」と檄を発した。未組織労働者の決起と組織化、地域共闘と総同盟ら他労組との共闘を目的とする運動組織方針であった。評議会は工場代表者会議を「わが国無産階級当面の闘争目標たる"民主主義獲得運動"の一環として闘う」として「未組織および右翼・中間派大衆とを協同的に動員するために、工場代表者会議、工場委員会などの闘争組織を展開すること、この闘争過程において右翼・中間派幹部の非階級制を暴露して、大衆をかれらの手から切り離すことに全力をあげること」を全国の評議会組合に指示した。
具体的には、まず、各工場での労働者の切実な不満、具体的怒りや問題を取り上げ、階級的自覚を呼び起こすべく労働者に働きかけ、またアジテーションを行う。労働者が立ち上がれば、その工場が工代会議の発起工場となる。発起工場を増やしながら、広く未組織の労働者や工場を組織化していく。地域で統一された工代会議は各工場の代表者が参加し、あらゆる工場から動員された労働者が傍聴し、決定された統一闘争は全工場の労働者に撤布された。各工場にはそれぞれ工場委員会が作られた。
3、全国で組織された「工場代表者会議」運動
たちまち全国では37の工代会議が成立した。恐慌化で苦しんでいた労働者は次々とそれぞれの地域工代会議と産別工代会議に結集してきた。そして工代会議の支援や指導によりただちに闘いに起ちあがった。東京では7つの産別工代会議と8つの地域工代会議、大阪(市電、地域)、兵庫(神戸、尼ヶ崎)、京浜(地域)、横浜(地域)、名古屋(金属、木材)、京都(染物、地域)、九州(八幡、戸畑、小倉、久留米)、青森、秋田、福島、小樽等であった。
神戸地方工代会議は準備会に96工場、1月16日の第一回工代会議には40余の工場が結集した。1月25日は全市2万6千人の労働者による5分間ストライキが決行された。5月には第二回工代会議が開催され、8月13日全市10分間ゼネストが120工場、約4万人により決行された。https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/0fce19ac058e790ef50c771b9f228769
東京合同労組は「木材工代会議」や「ゴム工代会議」を通じて、東京木材労働組合、東京ゴム労働組合の組織化を実現した。深川の木材工場では争議が頻発し、組合員は700余名に達した。木材工代会議には、深川地域の木材工場のほか、ガラス、セメント、金属の工場が加わる地域工代会議を兼ねていた。木材工代会議は、万信製材争議支援のため5月23日早朝に地域の40工場が5分間の同情ストライキ(ゼネスト)を決行した。6月20日に第二回ゼネストが予定されていたが、官憲により阻止された。こうして工代会議は北豊島・北部・豊多摩でも地域でのストライキ波及の源となった。
5月14日、北豊島工代は、「(工代の)参加工場のいかなる争議も全工場が一致して応援すること」という画期的決議も行っている。
5月26日江東化学工場懇談会準備会には40工場が参加した。5月29日の江東ガラス工場懇談会は予定参加16工場であった。
東京省線電車車庫代表者会議は、中野電車庫・神奈川電車庫・品川電車庫等5つの電車庫の労働者が結合した。労働時間改善等で闘い、公休日市出勤拒否闘争を行い、鎌田電車庫では全運転手の辞職連判状でもって闘い勝利した。
全東京金属工代会議は、関東金属は関東地方評議会の中心組合であり、5月28日に工代会議を開催すべく、全都の主な工場85を宣伝対象とし、5月26日から28日を宣伝デーとした。各工場へのアジテーションや以下の統一要求・スローガンを決めた。
(スローガン)
賃下げ反対!
解雇反対!
労働時間短縮!
失業手当獲得!
健康保険料の資本家全額負担!
工場法の改正!
官僚的就業規則反対!
臨時雇用制度撤廃!
請負制度撤廃!
二重賃金の本給繰り入れ!
などであった。
京都の染物労組を中心とした洛西、東九条の両工代会議は、友禅同業組合に向かって闘いに起ちあがり、短期間に大きな成果を上げた。
こうして工代会議は、未組織労働者の決起としばしば争議応援の地域共闘組織となった。
3、徹底した官憲の弾圧
しかし、大半の工代会議は資本と官憲の暴力的弾圧でその多くは敗北している。
5月6月の江東化学工代・城東地域工代・南千住地域工代・荏原地域工代・東京出版産業工代・・・すべて官憲により「弁士中止」「解散」を命じられた。
5月23日の江東化学工代会議は、開会と同時に解散命令がだされた上、代表者数人が検束された。
5月28日全東京金属工代会議が、芝浦サムライ倶楽部で開催された。70余の工場の代表が結集した。しかし、この工代会議の会場に大量な官憲が動員され、弾圧を加えてきた。すべての弁士に次々と「弁士中止」を命じ、あげくのことに「解散命令」を出してきた。
5月30日の城東地域工代も会議の開始と同時に解散命令。
6月3日南千住地域工代に至っては「続々として集合せる代表を途中から追ひ帰し、尚会場に居合わせたる廿(20)余名の代表者を全部検束・・・暴虐をあへてする・・・」始末だった。
6月11日荏原地域工代は「大崎沖電気工場の内田富次郎君が司会者としての挨拶を述べんとし、演壇に上がり『これから』と口を切るや、中止解散がやられた。」
6月18日東京出版産業工代は「開会後僅か一分にして解散を命ぜられた。」
これはもう国家権力が、何がなんでも「工場代表者会議」運動自体をさせない、会議そのものを破壊するというめちゃくちゃな大弾圧であった。いかに「工場代表者会議」運動がかれらにとって恐怖であったかは明らかであった。こうして官憲のなりふり構わない大弾圧によって工場体表者会議運動は全体としては敗北した。
しかし、小樽港のゼネストは成功したのだ。
4、小樽港ゼネスト(次回紹介予定)