るるの日記

なんでも書きます

ルルの変化・他力のみから中道へ【他力本願好きなルルは、自力的生き仏の人に救われている】

2022-07-10 15:39:32 | 日記
真に自ら計らわず他力本願で生きるには、逆に確固たる自我形成ができていないと、でき難いそうなんです。つまり、自分が何者かがわかってはじめて「私はだめだこりゃ」とへこむから、自ら計らわず他力本願で生きるようになるのです。

仏タイプの完全な人は、自我同一性が確立しています。
その人は、
生まれてから今まで、一貫した自分らしさを持ち、
自分は過去から現在、そして未来永劫に不変だという感覚をもち、
自分は何者でもない自分であると確立し、
その自分が他者にも同様に認められていて、
それらすべてを確信していて、
それでいて、のんびりくつろいでいるように見える人です。
自我は仏と同一しているのかな?

ルルは今まで、仏タイプの人に出逢ったことがあり、その人を見ているだけで、喜び、やる気、楽しさ、安心感がわいたものでした。現在は離ればなれになりましたが、毎日のように私はその人を思い浮かべます。するとそばにいたときみたいなプラスの感覚になるから不思議です。
まじ生き仏ですが、普通の会社員の女性です。なれるなら私もこの女性のようになりたいといつも思っています。

一般人は、青年期に、これまでのさまざまな経験からつくりだされた自分というものを一応は統合していきます。が、その後もさまざまな経験をするので変化し、修正したりして、徐々に確固たる自分を確立していきます。【自我同一性形成・アイデンティティー】

(ルルの場合)
統合がうまくいかなかった場合は、自分がわからない、自分がバラバラ、自分が本当にしたいことがわからない、何をしても空しい、、などの空虚感覚になりますが、その空虚感は生活が空虚なのではなく、アイデンティティーの空虚さが反映されているのです。(ルルは「何か面白いことないかなあ?刺激がほしいなあ」といつも思っていた。現在も非日常なことが好きだなぁ。祭とかライブとか)

そうしたとき、社会的義務は最小限にして暮らしてみたらよいかと思います。社会人になったとしても、自我同一性形成のための猶予期間は、社会的に認められるべきだと思うのです。
自我同一性が形成されますと、責任、誇り、意志、決心などの気持ちが少しずつ入りこんできます。

(ルルの場合)
「自我同一性形成なんか知らない。そんなことのために悩んだことがないし、悩みはない」と考えている人がいますが、その人は自分のことについて深く考えたり、本当の自分を自覚したくないという抵抗があるのです。青年期以降、問題の積み残しが発生し、中年の危機にツケが回ってきます。(ルルは回ってきました)


ルルは自分を直視せず、【他者からどう見られたいかに焦点を置いた自我意識が、自分に対する曖昧なイメージを描き、演出し他者と接していたかと思います】。悩みの無い強い自分をも演出していたのだから自分がわからなくなるのは当然です。

そして、直視して見えた自分の姿はとても醜く正視できないような行いの数々があふれていました。自分を隠す嘘つき女。卑怯もの。見栄っ張り。気弱。薄情。偽善者。。演出とは真逆のルルがあらわになりました。

その先には
私はダメダメだ。だから他力本願に救われたい。他力本願に頼ろう。もうこれしかない。どうせ私は悪人だから、ダメで当たり前なんだ。そう悲観することはない。ダメ人間には他力本願にお任せするすべがある。仏のはからいにお任せだ。ダメ人間と認識したら気は楽になった。長年培った性根は持ったまま変わらないだろうから、また嘘を演出したりするかもしれないな。
もういいょ!それでいいのだ!
もう、知らない。と、なげやりのように、開き直りました

ルルは今現在、仏のはからいに忠実に生きたい気持ちと、例の生き仏のような女性のようになりたいという願望がある。他力本願の教えでは人と仏は全く別、仏によってでしか人は救われないと説くが、私は実際生き仏のような女性によって救われた感があるの。。

このような心持ちになるのも、導きかもしれないなあ、、、
素直に頑張りたいです!







「欲を捨てたい」という煩悩

2022-07-10 11:33:51 | 日記
外的環境にうまく対応し、現実を見据え、自分を確立し、筋道だった考えをもって行動することができるような人は、
逆に、外的環境や現実に縛られない自由な心がはたらいているからなんだろう。

自由な心は環境や現実にこだわらず、そこに無理に合わそうとはしない。合わせたふりをするだけだ。
合わせたふりをしているうちに、自由な心と、物理的現実世界はシンクロしてくるらしい。

つまり、物理的現実世界が、自由な心に合わせてくるってことかな?

自ら在ることを充実させ、自由に生きるようになる準備は、自分を浄化すること。つまり、自分のはからいを捨てる【無為自然・あるがまま・自ら輝くはからいを捨てる・】ことで、存在への対立は消え、存在は得られます。

自分のはからいは
自ら在ることの否定だ。

何かのためでなく
それ自体のために
自ら在る、その自由さ。
それは
「為すなくして、為さざるなし」
自ら何かをしているつもりじゃないのに、すべてのことが為されている状態です。(何もしないでボーッとしているわけではない)

私の好きなゾーンやフロー状態です!意識なく行為のみの、心地よくベストな結果を出す状態です!

それは道理とか真理とか秩序とか
調和とか神仏とかとよばれている概念との合一状態なんでしょうかね~

欲望は、自らを生かす本能。それは捨てれない。逆に「欲を捨てたい」という思いがはからいとなるわね。
はっ!
理趣経の意味がわかった!





変化への渇望

2022-07-10 10:46:35 | 日記
健康な人でも心配ごとで悶々とするが、その気になればいろいろな気晴らしが、その気になれば毎日でもできる。あなた方は気づいてないが、それによってあなた方の心の悩みはどれほど軽減されているだろう。

長期にわたり部屋に寝たきりで、単調さを強いられてきた人の神経組織は、単調さによって損なわれる。変化を持てない病人の場合、心の悩みはますますつのり、部屋の壁にまで心配ごとがかかげられているよう。ベッドの周囲には心配ごとの亡霊がさまようのを感じ、変化という救いの手をさしのべない限りつきまとう。心配の想念から逃れることは不可能となっている。

たいへん苦痛なのであるが、なぜそうなってしまうのか自分にもわからない。そこで病人はその理由を考えて自問自答する。そんな自分をふがいなく思う。しかしどうあがいてみても、すべては無駄なのである。

実際のところは、まともに理由を詮索するよりは、書物とか会話に夢中できて、腹から笑った方がはるかに簡単にこの辛い苦痛から逃れられる。笑うだけの体力もない場合もあろう。そのとき必要なものは、自然が与えてくれる、あの感銘、、

餓えた眼が変化を渇望するのは、餓えた胃袋が食物を求めるように必死。。その渇望は餓えた人を動かして、どんなことをしてでも満足を手に入れようとさせる。
それは必死としか形容できない。

自然のまっただ中に立って感じる魂の歓喜といえども、部屋に閉じ込められた病人たちが、ドングリの実を高さ15センチばかりの樹木に育てあげる、その喜びにはとても及ばないであろう。おそらく日本全国隅々にまで一生かけて旅行してもそれほどの喜びは得られないであろう。

夜ごと病人は、夜明けが待ち遠しいと言う。これはまさに陽光への希求であり、眼に映るさまざまなものが、病みつかれた心を和らげてくれたその記憶からくるものに他ならない。

納得できる生き方なんです

2022-07-09 15:00:55 | 日記
納得とは
最もだと認めること

最もとは
何よりも確か

認めるとは
確かだと受けとめる

確かとは
しっかり、間違いない、安心

「自分が納得できる、自分の生き方とは」
何よりも一番しっかりした安心感を感じ、それで間違いはない、自分にとって正しいと、自分がはっきりと認めることができる生き方だ
それは
自分のはからいで、できるものではない。自分の頭と心を空っぽにして、その状態で湧く一念に忠実になることで、何よりもしっかりした安心感を感受し、これでよしと、自分の生き方を認めることができるんだ

だけど
問題が起きたときに「自分が何とかしなくてわ」と、義務感と責任感とが重くのしかかり、心地悪くなる。余計な荷物は自分勝手に作るものだ
他力を忘れて、自我業が心を占める


だけどすぐに察するのです。私の力では解決できないどころか、間違った思想や感情がうかぶということを。仏は「わたしを頼れ!救う」という本願を立てて存在しているということを

私は人に直接甘えて頼ることは苦手です
だから、頭と心を空っぽにして、仏におまかせしよう。。と思うのです

南無阿弥陀仏

自分の頭と心が無い分
仏の智慧と慈悲の一念が
頭と心に熏習していく

私は何にもできません
仏さまお救いください
と頼むことしかできません

全体世界からの助けは
空っぽになった頭や心に浸透し
自分の考えや思いと紙一重だから
自分の力だと勘違いしがちでしたが、今はもう、仏の他力の助けであると信じている
「こんな私にありがとうございます」である

何もないときは報恩感謝の念仏をあげ、問題が起きたら仏に頼る念仏をあげる
それだけの人生
つまり念仏をあげても、問題は次次とやってくるのです

ですが他力本願を信じるということは、、何ていうか、納得できる生き方なんです