真に自ら計らわず他力本願で生きるには、逆に確固たる自我形成ができていないと、でき難いそうなんです。つまり、自分が何者かがわかってはじめて「私はだめだこりゃ」とへこむから、自ら計らわず他力本願で生きるようになるのです。
仏タイプの完全な人は、自我同一性が確立しています。
その人は、
生まれてから今まで、一貫した自分らしさを持ち、
自分は過去から現在、そして未来永劫に不変だという感覚をもち、
自分は何者でもない自分であると確立し、
その自分が他者にも同様に認められていて、
それらすべてを確信していて、
それでいて、のんびりくつろいでいるように見える人です。
自我は仏と同一しているのかな?
ルルは今まで、仏タイプの人に出逢ったことがあり、その人を見ているだけで、喜び、やる気、楽しさ、安心感がわいたものでした。現在は離ればなれになりましたが、毎日のように私はその人を思い浮かべます。するとそばにいたときみたいなプラスの感覚になるから不思議です。
まじ生き仏ですが、普通の会社員の女性です。なれるなら私もこの女性のようになりたいといつも思っています。
一般人は、青年期に、これまでのさまざまな経験からつくりだされた自分というものを一応は統合していきます。が、その後もさまざまな経験をするので変化し、修正したりして、徐々に確固たる自分を確立していきます。【自我同一性形成・アイデンティティー】
(ルルの場合)
統合がうまくいかなかった場合は、自分がわからない、自分がバラバラ、自分が本当にしたいことがわからない、何をしても空しい、、などの空虚感覚になりますが、その空虚感は生活が空虚なのではなく、アイデンティティーの空虚さが反映されているのです。(ルルは「何か面白いことないかなあ?刺激がほしいなあ」といつも思っていた。現在も非日常なことが好きだなぁ。祭とかライブとか)
そうしたとき、社会的義務は最小限にして暮らしてみたらよいかと思います。社会人になったとしても、自我同一性形成のための猶予期間は、社会的に認められるべきだと思うのです。
自我同一性が形成されますと、責任、誇り、意志、決心などの気持ちが少しずつ入りこんできます。
(ルルの場合)
「自我同一性形成なんか知らない。そんなことのために悩んだことがないし、悩みはない」と考えている人がいますが、その人は自分のことについて深く考えたり、本当の自分を自覚したくないという抵抗があるのです。青年期以降、問題の積み残しが発生し、中年の危機にツケが回ってきます。(ルルは回ってきました)
ルルは自分を直視せず、【他者からどう見られたいかに焦点を置いた自我意識が、自分に対する曖昧なイメージを描き、演出し他者と接していたかと思います】。悩みの無い強い自分をも演出していたのだから自分がわからなくなるのは当然です。
そして、直視して見えた自分の姿はとても醜く正視できないような行いの数々があふれていました。自分を隠す嘘つき女。卑怯もの。見栄っ張り。気弱。薄情。偽善者。。演出とは真逆のルルがあらわになりました。
その先には
私はダメダメだ。だから他力本願に救われたい。他力本願に頼ろう。もうこれしかない。どうせ私は悪人だから、ダメで当たり前なんだ。そう悲観することはない。ダメ人間には他力本願にお任せするすべがある。仏のはからいにお任せだ。ダメ人間と認識したら気は楽になった。長年培った性根は持ったまま変わらないだろうから、また嘘を演出したりするかもしれないな。
もういいょ!それでいいのだ!
もう、知らない。と、なげやりのように、開き直りました
ルルは今現在、仏のはからいに忠実に生きたい気持ちと、例の生き仏のような女性のようになりたいという願望がある。他力本願の教えでは人と仏は全く別、仏によってでしか人は救われないと説くが、私は実際生き仏のような女性によって救われた感があるの。。
このような心持ちになるのも、導きかもしれないなあ、、、
素直に頑張りたいです!