清水豊さんの『老子と太極拳』が出来た。老子の教えと、太極拳の目指すところが同じであること、つまり太極拳を修練することは、『老子』を修練することでもあることを、『老子』の全81章を取り上げ、解説している。
例えば31章では、
「優れた兵士を持つのは、はたして良いことであろうか。
戦いに勝つのは、はたして好ましいことであろうか。
ただ、こだわりなく無為であること。
もし、聖なるものを求めるのであれば、
つつましやかでなくてはならない。」
と老子は、おおいなる道の悟りを得た者は、「兵」にかかわることはなく、どうしても「兵」を用いなければならないときは「恬淡」であれと説いている。
太極拳では、自然な動きではない攻撃動作(剛)は、自然な動き(柔)へと還元されてしまっている。攻撃の動きのように見える太極拳ではあるが、その動きは「兵」そのままではない。あらゆる執着を超えた「恬淡」の境地を知らなければ、奥義にいたることはない。
太極拳と老子の理想とする境地が読者の眼前に開けてくる。
太極拳愛好家だけではなく、武術や老子に少しでも興味があれば、ぜひ読んでいただきたい。
先日、川越の帯津三敬病院におうかがいし、帯津良一先生に本書を贈呈したところ、「ぼくも太極拳の本、出したばかりなんだよ。できたてのホヤホヤ」といって、刊行されたばかりの『太極拳養生法』をいただいた。先生の健康観、生命観、哲学が太極拳と融合したユニークな内容だ。帯津先生は太極拳歴20年を超え、太極拳が好きで好きでたまらないという。
その帯津先生から今日、早速高評の電話をいただき、清水さんの他の本すべてを注文くださった。
例えば31章では、
「優れた兵士を持つのは、はたして良いことであろうか。
戦いに勝つのは、はたして好ましいことであろうか。
ただ、こだわりなく無為であること。
もし、聖なるものを求めるのであれば、
つつましやかでなくてはならない。」
と老子は、おおいなる道の悟りを得た者は、「兵」にかかわることはなく、どうしても「兵」を用いなければならないときは「恬淡」であれと説いている。
太極拳では、自然な動きではない攻撃動作(剛)は、自然な動き(柔)へと還元されてしまっている。攻撃の動きのように見える太極拳ではあるが、その動きは「兵」そのままではない。あらゆる執着を超えた「恬淡」の境地を知らなければ、奥義にいたることはない。
太極拳と老子の理想とする境地が読者の眼前に開けてくる。
太極拳愛好家だけではなく、武術や老子に少しでも興味があれば、ぜひ読んでいただきたい。
先日、川越の帯津三敬病院におうかがいし、帯津良一先生に本書を贈呈したところ、「ぼくも太極拳の本、出したばかりなんだよ。できたてのホヤホヤ」といって、刊行されたばかりの『太極拳養生法』をいただいた。先生の健康観、生命観、哲学が太極拳と融合したユニークな内容だ。帯津先生は太極拳歴20年を超え、太極拳が好きで好きでたまらないという。
その帯津先生から今日、早速高評の電話をいただき、清水さんの他の本すべてを注文くださった。
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