さんかくしかく

毎日いろいろな形になってしまうぼくのあれこれ。

三角雲の下

2009年03月12日 | 三角記事
 もうその人とは、ずーっと前から
 「海を見に行こう」
 って言い合っていたから、ぼくたちにとって、その日が今日になるということは、むしろ遅いぐらいなのだった。

 前日、学校近くの、夜のマクドナルドで
 「あした行こうか」
 ってことになったのだった。言ったのはぼくだ。
 でも、ぼくはいつもたいてい、友だちとの話の中で「どこどこに行きたいね」という流れになったら、とりあえず
 「じゃあ、明日行こうよ」
 と言ってみるのだ。
 この「じゃあ明日」のクセは、もう死んでしまったぼくのおじいさんが、たった一度だけ言ったせりふで、それをぼくが気に入って使っているのだ。
 ぼくの住んでいるところからおじいさんの家までは、朝から晩まで車で走ってやっと着く距離だった。だから、いつも夏休みや冬休みにしか会えなかったのだけれども、いつかぼくが
 「また遊びに来るからね。おじいちゃんも、来ていいよ」
 と言うと
 「じゃあ明日行くから!」
 と涙ぐむのだった。

 この「じゃあ明日いこうか」というのがそのまま実行に移されたのは、めったにないことだった。

 いつもぼくのことばは笑いとして消えていったような気がする。だいたいいつも、半分本気で、半分冗談なのだ。
 そんなわけで、トントンと話が進んで、珍しく「エイッ」と助走をつけるようなかんじで、海に行くことになったのだった。
 ぼくといっしょに行く女の人には、恋人がいて、ぼくはぼくの恋人に、ふられたばかりなのだった。もうその人のことは考えまいとしていたのだけども、やっぱり一日二日で簡単に振り切れるものではない。

 だからぼくは一緒に行く人に申し訳なかったし、その人の恋人にも申し訳なかった。

 西宮を過ぎると、街並みがきれいになって、白いマンションがさんぜんと立ち並ぶ景色になっていった。
 そのあいだから神戸タワーがチラチラと見えて、そのうちに三宮に着いた。

 海浜公園駅の次の、須磨駅でぼくたちは降りた。駅の前はすぐに砂浜になっている。駅でビールやポテトチップを買って、もう使っていない桟橋でカンパイした。
 駅の前がすぐに砂浜になっているので、友だちはすごく感動していた。それまでは眠たそうだったのだけれども、目の前の浜辺に、眠気もどこかに行ってしまったようだった。
 それから、貝がらを拾った。

 家を出てから、いろいろ忘れ物をしていることに気付いたのだけれども、貝がらを入れる袋だけは忘れずに、カバンの中に入っていた。
 貝がらは砂浜じゅうに落ちていて、ほとんどが二枚貝だった。ごくたまに巻き貝が見つかって、彼女はそれを耳に当てて「なんか聞こえる」と言っていたのだけれども、波の音がいつもしているので、なにかそれはちょっとヘンな気がした。
 砂浜は長細く、どこまでも続いていて、貝がらもあちらこちらに点々とまとまってうちあげられていた。
 手のひらぐらいもある二枚貝の貝がらや、きれいなシマシマの模様の貝がらを拾っていた。
 ぼくは、長い間風に吹かれて砂に削られた白い貝がらばかりを拾った。ほのかに模様が残っていたり、輝くばかりの白さのものだったり、今一番キレイだと感じているものばかり拾った。
 空模様はあいにくで、最初だけすこし日がさしたきり、あとは雲が覆ってしまい、うすく太陽の輪郭が透けて見える程度なのだった。
 ぼくはそのとき、なぜだかわからないのだけれども、この真上にある雲は四角すいなんだろうな、と思っていた。
 でっかい四角すいの雲は、雲とぼくらとの間の距離の、その何倍もの大きさで空に立ち上がっているのだろうか、と想像した。

 このまま貝がらを拾い歩いて、次の駅のところまで行こうということになった。
 風が強かったので、コンタクトレンズをしていた友だちは辛そうだった。目薬がもう残り少ないと言った。
 曇り空の、雲より低く、飛行機が飛んでいた。
 砂浜はゆるい斜面になって、途中から水につかっている。この砂浜の斜面になにかを描いたなら、それはあの飛行機に届くのだろうか。
 あの飛行機からこの砂浜はきっと見えるはずで、それはやがてどんどん小さくなっていって、神戸の港と、大阪港の輪郭のなかに消えてしまうんだろう。
 小さいボートがくくりつけられているだけの桟橋に上がってみた。
 そこには二艘のボートがゆらゆらゆれているだけだったのだけれども、桟橋としてはとても頑丈なコンクリートでできていて、それは防波堤とおなじようなしつらえだった。
 「バス停みたい!」
 とぼくはパッと言ったのだけれども、橋の両脇に門のような、電柱のようなものがすえつけられていた。ここからバスが発着すればいいのにと、そのバスがうちの近くに停まればいいのにと思った。いつでも来られるように。
 そこには他の誰かが置いたのだろう、イソギンチャクとヒトデが並べてあった。ぼくが海に投げると、イソギンチャクは泡を出して沈んでいった。ヒトデはくるくると舞ったり、ヒラヒラしたりしながら、やっぱり下に落ちていったけれども、ひとつだけ浮いたままのやつがあった。

 貝がらを拾っていると、友だちはフジツボがキライらしいということがわかってきた。貝を拾って喜んでいるのに、フジツボは見るだけでもイヤ! という態度なのだった。
 なぜなのかはわからないけれども、たいがいぼくもフジツボに足を傷だらけにされたことがある。嫌う理由はわからないでもない。
 「フジツボだって いいじゃない 貝だもの」
 とことばで遊んでみたら、その人はしずかに笑ってくれた。

 けれども、あとになって調べてみると、フジツボは貝ではなかった。
 それから、海浜公園のやしの木の下で、ふたりで他愛もない話をしたけれども、それらは風みたいに、すぐにどこかへ流れてしまって、今はなにを話したのかあまり覚えていない。

 けれども、その人の手がすごく冷たかったこととか、それでぼくが手袋を貸してあげたこととか、覚えている。でもぼくはぼくのポケットがすごくあたたかかった。
 四角すいの雲はまだまだ空を覆っていて、あいかわらず寒かったのだけれども、ぼくたちはなかなかそこから動かなかった。
 むこうの砂浜で、そのまたむこうの波打ち際で、カップルが座り込んでいたり、上着を着せてあげたりしていた。
 けれどもぼくたち二人は、二人であるのにもかかわらず、ひとつではなかった。
 学校に行けばいつでも会える人なのだけれども、ふたりで出かけるのは本当は、実は、すごく難しいことなんじゃないか、と思った。
 てっとりばやく、片方が片方を好きになれば、あるいは両方が好きになってしまえば、出かけるのは簡単になるだろう。
 だけどそれはできないって思っていて、わかっている。

 やしの木の下で、二人で、二人の写真を、なんども撮った。


コメントを投稿