さんかくしかく

毎日いろいろな形になってしまうぼくのあれこれ。

気分は青色 心は水色

2009年03月29日 | 三角記事
 学校へは電車で一時間半ほどかかる。
遠いところに来ているなとは思っているけども、学校の周りを見に行こうと、学外を歩くことは少ない。外に出て知らない町を歩くというのがキライなわけではないのだが。
 朝のラッシュにもまれてしまって、学校に着くまでにヘトヘトになってしまうから、なんともしようがなかったのである。

 ところがこのごろ、あたたかくなってきたのと、まとまった絵の展示を終えて暇になったのとで、余裕ができてきた。
 ならば学校を出て動き回ろう、ということになったのだが、まずは家から自転車を持ってくることにした。家のガレージのすみに、使わなくなって二年ほど経つ古い自転車があったので、それを学校用の自転車にしようと思ったのだ。
 この自転車は、ぼくが中学校に入学するというので、その記念に買ってもらったものだ。

 もともとぼくは自転車でどこかへ行くのが好きだ。
 小学校の、夏休みの自由研究で、住んでいる町の周りを自転車で探検し模造紙の大きな地図にしたことがある。
 たぶんそのあたりから、自転車で自分の知らない遠くの町へ行く…ということを始めたのだろうと思う。最初は家の前の川の向う。そのつぎはとなり町、次はとなりの市、つぎはとなりの県―― と、だんだん距離を伸ばしていったのだった。
 最初の大掛かりな自転車の旅では、宝塚へ行った。朝早く起きて自転車に乗るというのは、初めての体験だった。
 中学高校の頃はすべて日帰りのサイクリングだった。日帰りの限界は淡路島と琵琶湖で、琵琶湖のときは、湖をチラッと見て帰路についたのだが、途中でパンクしてしまい、ふらふらになって帰った、なんてこともあった。

 あれはたしか…
 高校を卒業したとき、友だちと三人で三重県をめざして出発した。
 一週間かけて、大阪から奈良県、そして三重県の大王崎で海を眺めて津市を回って、京都から大阪に帰ってきた。まったくの行き当たりばったりで、一週間かけて走ったのだが、これが最長記録である。

 ガレージの隅にある自転車は、三重県まで行ったときに乗った、ごく変わり映えのない普通の通学用自転車である。
 その時すでにかなりボロボロだったのだが、今までなんとか耐えているというかんじだ。
 ぼくは今はこれとはちがう自転車を使っている。だから一台この自転車だけ余分になっているのだけれども、かろうじて壊れていないのと、思い出が相当たくさんあるのとで捨てられないでいるのだ。
 ぼくはこの自転車に乗って、学校を目指した。

 この自転車に乗るのは久しぶりだった。出発前にサドルを上げて、ふしぶしに油をさすと、黒ずんだ油がぽたぽたおちて模様をつくっていった。
 タイヤが少し曲がっているので、走り出すと揺れて、規則正しいリズムにゆれた。
 静かな道を選んだ。

 十時過ぎに家を出たときは、もうすでに日差しがあって、あたたかかった。ところどころに開きかけた桜の木が見えた。
 調べてみると、家から学校までは五十キロほどあった。この距離はそんなにたいした距離ではないと思った。
 なにしろ電車で一時間半だし、三重にくらべたら、それこそ圧倒的に気楽なのだった。おまけに片道でいいのだ。京都へ自転車で行くのは久しぶりだった。
 考えてみれば、サイクリング自体、三重に行ったあとはやっていなかった気がする。もうあの行き当たりばったりの旅から二年が過ぎたのだ。タイヤがガタガタなのでかなり気を使って、道を選んで走った。

 途中、通りかかった知らないスーパーに立ち寄っては飲み物を買ったりおやつを買ったりして、食べながら飲みながら走った。休憩のほうが多かったのではないだろうか・・・と今になってそう思う。
 高槻の田んぼ道を走っているときが特に気分が良かった。地図を持たずに出かけてしまうのはいつものことで、その時その時の勘にすべてを傾けて道を選ぶ。このときはかなりサエていたのだとおもうけども、とにかくいい道ばかりだった。
 地図を持たなくても前に進めるのは、たぶんどこから行ってもおなじ場所にたどりつけるように、つながっているからだと思う。
 それにしても、自転車に乗ったときの自分は、風になったみたいに、まるで力が入らないということに気がついた。

 油をさした自転車は、それほど力を入れなくても坂をのぼった。
 どうしてもしんどいなー、となったときは歩いた。
 向日町の坂道はきれいだった。丘から京都の町を眺めることもできた。あ、あそこに西友があるな、と目印を発見して、あっちに行こうと思ったり、なかなか橋がなくて堤防をずっと走ったりした。

 ―2009年4月の記事。未完結。

三角雲の下

2009年03月12日 | 三角記事
 もうその人とは、ずーっと前から
 「海を見に行こう」
 って言い合っていたから、ぼくたちにとって、その日が今日になるということは、むしろ遅いぐらいなのだった。

 前日、学校近くの、夜のマクドナルドで
 「あした行こうか」
 ってことになったのだった。言ったのはぼくだ。
 でも、ぼくはいつもたいてい、友だちとの話の中で「どこどこに行きたいね」という流れになったら、とりあえず
 「じゃあ、明日行こうよ」
 と言ってみるのだ。
 この「じゃあ明日」のクセは、もう死んでしまったぼくのおじいさんが、たった一度だけ言ったせりふで、それをぼくが気に入って使っているのだ。
 ぼくの住んでいるところからおじいさんの家までは、朝から晩まで車で走ってやっと着く距離だった。だから、いつも夏休みや冬休みにしか会えなかったのだけれども、いつかぼくが
 「また遊びに来るからね。おじいちゃんも、来ていいよ」
 と言うと
 「じゃあ明日行くから!」
 と涙ぐむのだった。

 この「じゃあ明日いこうか」というのがそのまま実行に移されたのは、めったにないことだった。

 いつもぼくのことばは笑いとして消えていったような気がする。だいたいいつも、半分本気で、半分冗談なのだ。
 そんなわけで、トントンと話が進んで、珍しく「エイッ」と助走をつけるようなかんじで、海に行くことになったのだった。
 ぼくといっしょに行く女の人には、恋人がいて、ぼくはぼくの恋人に、ふられたばかりなのだった。もうその人のことは考えまいとしていたのだけども、やっぱり一日二日で簡単に振り切れるものではない。

 だからぼくは一緒に行く人に申し訳なかったし、その人の恋人にも申し訳なかった。

 西宮を過ぎると、街並みがきれいになって、白いマンションがさんぜんと立ち並ぶ景色になっていった。
 そのあいだから神戸タワーがチラチラと見えて、そのうちに三宮に着いた。

 海浜公園駅の次の、須磨駅でぼくたちは降りた。駅の前はすぐに砂浜になっている。駅でビールやポテトチップを買って、もう使っていない桟橋でカンパイした。
 駅の前がすぐに砂浜になっているので、友だちはすごく感動していた。それまでは眠たそうだったのだけれども、目の前の浜辺に、眠気もどこかに行ってしまったようだった。
 それから、貝がらを拾った。

 家を出てから、いろいろ忘れ物をしていることに気付いたのだけれども、貝がらを入れる袋だけは忘れずに、カバンの中に入っていた。
 貝がらは砂浜じゅうに落ちていて、ほとんどが二枚貝だった。ごくたまに巻き貝が見つかって、彼女はそれを耳に当てて「なんか聞こえる」と言っていたのだけれども、波の音がいつもしているので、なにかそれはちょっとヘンな気がした。
 砂浜は長細く、どこまでも続いていて、貝がらもあちらこちらに点々とまとまってうちあげられていた。
 手のひらぐらいもある二枚貝の貝がらや、きれいなシマシマの模様の貝がらを拾っていた。
 ぼくは、長い間風に吹かれて砂に削られた白い貝がらばかりを拾った。ほのかに模様が残っていたり、輝くばかりの白さのものだったり、今一番キレイだと感じているものばかり拾った。
 空模様はあいにくで、最初だけすこし日がさしたきり、あとは雲が覆ってしまい、うすく太陽の輪郭が透けて見える程度なのだった。
 ぼくはそのとき、なぜだかわからないのだけれども、この真上にある雲は四角すいなんだろうな、と思っていた。
 でっかい四角すいの雲は、雲とぼくらとの間の距離の、その何倍もの大きさで空に立ち上がっているのだろうか、と想像した。

 このまま貝がらを拾い歩いて、次の駅のところまで行こうということになった。
 風が強かったので、コンタクトレンズをしていた友だちは辛そうだった。目薬がもう残り少ないと言った。
 曇り空の、雲より低く、飛行機が飛んでいた。
 砂浜はゆるい斜面になって、途中から水につかっている。この砂浜の斜面になにかを描いたなら、それはあの飛行機に届くのだろうか。
 あの飛行機からこの砂浜はきっと見えるはずで、それはやがてどんどん小さくなっていって、神戸の港と、大阪港の輪郭のなかに消えてしまうんだろう。
 小さいボートがくくりつけられているだけの桟橋に上がってみた。
 そこには二艘のボートがゆらゆらゆれているだけだったのだけれども、桟橋としてはとても頑丈なコンクリートでできていて、それは防波堤とおなじようなしつらえだった。
 「バス停みたい!」
 とぼくはパッと言ったのだけれども、橋の両脇に門のような、電柱のようなものがすえつけられていた。ここからバスが発着すればいいのにと、そのバスがうちの近くに停まればいいのにと思った。いつでも来られるように。
 そこには他の誰かが置いたのだろう、イソギンチャクとヒトデが並べてあった。ぼくが海に投げると、イソギンチャクは泡を出して沈んでいった。ヒトデはくるくると舞ったり、ヒラヒラしたりしながら、やっぱり下に落ちていったけれども、ひとつだけ浮いたままのやつがあった。

 貝がらを拾っていると、友だちはフジツボがキライらしいということがわかってきた。貝を拾って喜んでいるのに、フジツボは見るだけでもイヤ! という態度なのだった。
 なぜなのかはわからないけれども、たいがいぼくもフジツボに足を傷だらけにされたことがある。嫌う理由はわからないでもない。
 「フジツボだって いいじゃない 貝だもの」
 とことばで遊んでみたら、その人はしずかに笑ってくれた。

 けれども、あとになって調べてみると、フジツボは貝ではなかった。
 それから、海浜公園のやしの木の下で、ふたりで他愛もない話をしたけれども、それらは風みたいに、すぐにどこかへ流れてしまって、今はなにを話したのかあまり覚えていない。

 けれども、その人の手がすごく冷たかったこととか、それでぼくが手袋を貸してあげたこととか、覚えている。でもぼくはぼくのポケットがすごくあたたかかった。
 四角すいの雲はまだまだ空を覆っていて、あいかわらず寒かったのだけれども、ぼくたちはなかなかそこから動かなかった。
 むこうの砂浜で、そのまたむこうの波打ち際で、カップルが座り込んでいたり、上着を着せてあげたりしていた。
 けれどもぼくたち二人は、二人であるのにもかかわらず、ひとつではなかった。
 学校に行けばいつでも会える人なのだけれども、ふたりで出かけるのは本当は、実は、すごく難しいことなんじゃないか、と思った。
 てっとりばやく、片方が片方を好きになれば、あるいは両方が好きになってしまえば、出かけるのは簡単になるだろう。
 だけどそれはできないって思っていて、わかっている。

 やしの木の下で、二人で、二人の写真を、なんども撮った。