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感情解放、ヒーリング、意識の目覚めをキーワードに日々の気づきを綴っていきます

「イエスの解放」を見て

2017年01月15日 07時00分00秒 | 日記

最近、ある方から教えていただいて知ったのですが、レナードのDVDが発売されていたんですね。随分前にナチュラルスピリットのメルマガを解除してしまっていたので、うっかりしていました。この「イエスの解放」は、レナードの一人芝居の形で、2000年前にイエスに起こった出来事の真相と、その教えの真意を説いています。

レナードは、セミナーの中で以前、イエスの磔刑のとき、彼に何が起こったのかを体験したということを話したことがありました。その時は詳しい内容までは明かされなかったのですが、まだそれを話す時期ではなかったのでしょう。

これが収録されたのは2008年と、最後のエンドロールに表示されていたと思うのですが、確かに以前、彼の動画を検索していて、日本語字幕のついていないこのDVDと同じ動画の一部を見たことがありました。

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今回、やっと日本語版が出たというわけですね。

その内容とともに、彼の力強い語り口調にぐっと引き込まれて行きます。

これがイエスの死の真実だったのかどうかは、見る人の判断に委ねるとして、イエスが肉体の死後、辿った歩みは、個人的には、納得できるものがありました。

ネタバレになってしまうのであまり詳しくは書けませんが、イエスがもしそのような歩みを辿らなかったのなら、今こうしてもたらされているプレゼンスの教えがいかに素晴らしいものであったとしても、恐らく私の心には届かなかったのではないかと思ったからです。

というのは、これは以前からたびたび私自身感じていたことなのですが、闇に堕ちたことのない者が、いくら光の世界からその素晴らしさを説き、あなたは神の子なのだと呼びかけたとしても、地獄の苦しみの中でもがき苦しむ者にとって、その呼びかけは全く現実感のないおとぎ話のようで、まるで響くところがない、と思えてしまうのです。

あなたはそうでしょう。でも私はあなたの様にはなれない。現に今、私の心は重く張り裂けそうに痛み、とても軽やかにはなれないのだから、と、自分のこととして捉えられないのです。

深い闇の中でもがき苦しむ者の魂に響くのは、自分は絶対の安全圏に居てそこから蜘蛛の糸を垂らして哀れな亡者を救うような上から目線の救済ではなくて、この地獄から真の神の国に通じる確たる通路、脱出方法なのです。

それを示すには、いったん地獄に堕ち、そこから神の国へと通じる道を拓く必要があるというのは道理です。

振り返ってみれば、私はずっと以前から、このことをどこかで考え続けてきたと思います。それが、このDVDの中で語られていたので、その部分には深く腑に落ちるものを感じました。

イエスが死の間際に言ったとされる叫びの真相と神の摂理、聖書の中で抜け落ちてしまった言葉などなど、クリスチャンの方にはどのように受け取られるだろうと思うような衝撃的な内容の数々ですが、レナードがこれまで私たちに伝えてきたプレゼンスの教えをベースに見ていくと、ただの興味本位に作られたおとぎ話のストーリーに留まらない、何かを感じるだろうと思います。

プレゼンスの教えは、準備のできた人のためのものだと彼が何度も言うように、そうした人には、この教えが真実であるのかどうかが分かるのです。

真実の教えには、いかなる信念も信仰も、必要ありません。明らかな真実であると認識することに対して、私たちは信じる必要も信念を固める必要もないからです。「あぁ、そうなのだ」と、知ってしまえばそれで終わりです。

教えを受け入れるのに、奇蹟すら必要ないでしょう。奇蹟が必要なのは、真理を認識できるまで準備のできていない者に対してです。

とは言え、私が最初にレナードの教えに出会ったとき、その重要性を認識したのは、ある種の奇蹟だったかもしれません。

一体何が起こっているのか全く分からなかったけれど、彼のプレゼンスのフィールドに触れることで、ヒーリングなどはるかに超えた何かが自分の中にも、そして会場のみんなの中にも起こっていることが分かったからです。

それまでの自分の概念を超える出来事に出合ったとき、人はそれを奇蹟だと認識します。そういう意味で、私を彼の教えに繋ぎ止めたのは、奇蹟だったと言えなくもありません。

けれどそれは、グラスの水をワインに変えるような奇蹟でもなければ、死人を生き返らせるようなあからさまな奇蹟でもありませんでした。

プレゼンスはとてもパワフルであり、ある人にとっては無上の癒しとなる一方で、ある人にとっては劇薬にすらなる場合もあります。けれど、劇薬をあおってもなおその奥にある真理を求める意図が揺らがないのならば、毒は私たちを覆っていた幻想を焼き払い、地上の楽園を見せるでしょう。

私自身、2011年に彼の教えに触れ、プレゼンスの劇薬をあおって以来、幻想を払う炎に焼かれ続ける歩みですが、その炎の隙間から時折、信じがたいほどの恩寵に触れることが時たまあります。

なぜそんな思いをしてまでプレゼンスを求めるのかと言えば、それ以外に本当に魂を満たすものがないからです。そう思っていてもまだ、プレゼンスに意図が定まり切っていない自分も居るので、DVDを繰り返し見ながら、自身の在り方を問うて行きたいと思います。

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