自分を越えた、何か大きな力が
あると信じている人は多い
と思いますが、
実際にそれに触れ、
感じようとしたときに、
なかなか感じられない
という方も、少なくない
ように思います。
そういう人を見ていて感じるのは、
自分(我)で目いっぱい頑張って、
頭で掴みに行こうとしているケースが
とても多いな、ということです。
あると信じている人は多い
と思いますが、
実際にそれに触れ、
感じようとしたときに、
なかなか感じられない
という方も、少なくない
ように思います。
そういう人を見ていて感じるのは、
自分(我)で目いっぱい頑張って、
頭で掴みに行こうとしているケースが
とても多いな、ということです。
大いなるものは、そういう意識では
捉えられないでしょう。
もっと力みを抜いて、
委ねる心持ちが大切です。
どうしたらそれができるのかな、
と考えてみると、信頼と覚悟、
或いはコミットメントが
カギかな、と思います。
その大いなるものが
自分にとって、深く信頼に足るもの
であるという意識がない状態で
委ねようとすると、恐くて
必ず力が入ります。
妄信でも思い込みでもない
心からの深い信頼があって初めて、
委ねることができるんですね。
そしてそこに、
大いなるものに委ねて生きる、
というコミットメントがあって、
さらに深いレベルでそれと一体と
なっていきます。
そうした信頼の感覚は、
どのようにして得られるもの
でしょうか。
私の場合で言えば、
自身の深奥に問い、呼びかけ、
祈り続けてきたことへの応答、
対話の積み重ねでしょうか。
今生のみでなく、別の人生で
深く祈っていたことへの応答が、
不意にやってきたことがあって、
私自身はそんなことは忘却の彼方に
消えているのに、神は、寸分もたがわず、
忘れることもなく覚えていて、
今、応えてくれた、とわかったことが
あったんですね。
そうした理屈を越えた理解が
他にも何度かあって、
それが魂に深く響き、何とも言えない
感覚があるので、ただの偶然ではなく、
特別なメッセージなのだと
わかるのです。
無理やりのこじつけでも
都合の良い曲解、妄想
ではないと言えるのは、
その瞬間に、頭の理解を越えた
魂の旅路の無数の伏線が
収束していくような理解が
一瞬で起こるからです。
頭でこじつけた理解では、
こういうのはないですからね。
その理解が訪れたことによって、
自分は一人ではなかった、
という深い安堵と、
積年の恨みやしこりが解け、
この世界の大いなる意志が
まさに深遠なる愛そのものであり、
自分から離れたことはなかった
という絶対の確信に至るのでした。
だから委ねられるし、
その大いなる意志を我が意志
としようと思えるのです。
そうした体験を幾度も繰り返していくと、
もう後戻りはできません。
この世界の意味も、人生の見方も、
永遠に変わってしまいます。
そしてそれは、漸次深まっていくでしょう。
そういう体験をしながらも、
もちろん一瞬で変化するわけでもなく、
多くの場合は、これまでの癖も
薄くはなるけれど、しばらくは
残っています。
けれど、魂を深く揺さぶったあの理解は、
消えることはなく、深いところでずっと
あなたを導き続けます。
そうして、必然のタイミングで
歪んだ癖を修正するプロセスを経て、
あなたという存在は、どんどん
純化されていくんですね。
このように、私の場合は
祈り求めるところから始まっている
ようでいて、
実はそうしようと思えたこと自体、
自分の力でも意志でもなく、
それは魂の壮大なプログラム
だったのかもしれません。
インドの聖者ラマナ・マハルシは、
私を覚えていることが恩寵である
と言っていますが、
恩寵は、しかるべき時に、
しかるべき人に、しかるべきように
訪れるでしょう。
そのときは、もうすぐそこかもしれません。
恩寵が、あなたとともに在りますように。
捉えられないでしょう。
もっと力みを抜いて、
委ねる心持ちが大切です。
どうしたらそれができるのかな、
と考えてみると、信頼と覚悟、
或いはコミットメントが
カギかな、と思います。
その大いなるものが
自分にとって、深く信頼に足るもの
であるという意識がない状態で
委ねようとすると、恐くて
必ず力が入ります。
妄信でも思い込みでもない
心からの深い信頼があって初めて、
委ねることができるんですね。
そしてそこに、
大いなるものに委ねて生きる、
というコミットメントがあって、
さらに深いレベルでそれと一体と
なっていきます。
そうした信頼の感覚は、
どのようにして得られるもの
でしょうか。
私の場合で言えば、
自身の深奥に問い、呼びかけ、
祈り続けてきたことへの応答、
対話の積み重ねでしょうか。
今生のみでなく、別の人生で
深く祈っていたことへの応答が、
不意にやってきたことがあって、
私自身はそんなことは忘却の彼方に
消えているのに、神は、寸分もたがわず、
忘れることもなく覚えていて、
今、応えてくれた、とわかったことが
あったんですね。
そうした理屈を越えた理解が
他にも何度かあって、
それが魂に深く響き、何とも言えない
感覚があるので、ただの偶然ではなく、
特別なメッセージなのだと
わかるのです。
無理やりのこじつけでも
都合の良い曲解、妄想
ではないと言えるのは、
その瞬間に、頭の理解を越えた
魂の旅路の無数の伏線が
収束していくような理解が
一瞬で起こるからです。
頭でこじつけた理解では、
こういうのはないですからね。
その理解が訪れたことによって、
自分は一人ではなかった、
という深い安堵と、
積年の恨みやしこりが解け、
この世界の大いなる意志が
まさに深遠なる愛そのものであり、
自分から離れたことはなかった
という絶対の確信に至るのでした。
だから委ねられるし、
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としようと思えるのです。
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そしてそれは、漸次深まっていくでしょう。
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2025年
2月12日(水)19:00~22:00
3月14日(金)19:00~22:00
4月13日(日)17:00~20:00
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