Wind Letter

移りゆく季節の花の姿を
私の思いを
言葉でつづりお届けします。
そっとあなたの心に添えてください。

詩 こむぎの日記「僕は90歳」

2022-06-11 11:29:36 | 詩作品

 

                          高安ミツ子


       

 

    僕は90歳のなりました

    目覚めると

    お父さんと家の周りを散歩します

    遠くには行きません

    だって無理なのです。

    後ろ脚の筋肉がなくなり

    氷の上を歩いているように滑ってしまうからです

 

    鶯が朝のグラデーションを描くように鳴いています

    四十雀が体を揺らして囀っています

    朝の空気は格別なのに

    僕は僕の命を何故か悲しく感じます

    毛並みも落ちて

    自慢だった尻尾も今は古びた箒のようで

    自慢するものは何もありません

 

    この頃は目が悪く

    時々外の塀にぶつかります

    散歩の後は眠るだけなのです

 

    お父さんとお母さんは

    「こむぎはりっぱだね」とほめてくれます

    僕が家で粗相をしても叱りません

    90歳だから許してくれるのです

    僕が食べられるように餌も考えてくれます

 

    お母さんは僕を抱っこして

    庭の風景を見せてくれます

    僕は弱ってしまったけれど

    深い青と純白に咲いている

    今日の紫陽花をみながら

    お母さんの顎をチョッピとなめました

    ささやかな親愛の気持ちなのです

    もう僕は懐かしむ記憶も気力もありません

    ただ今を生きています

 

    来年の桜は見られないかもしれません

    はかないけれど僕の灯を

    お父さんとお母さんが覚えてくれていたら

    僕はただ嬉しいのです

 

    人と犬の僕がこんなに近しく思えるのは-

    太古からの歴史でしょうか

 

    僕とお父さんお母さんをつないでいる愛おしい気持ちが

    谷川のような心地よい瀬音になり

    僕の耳元に聞こえています

    そんな時

    僕は雲の数を 風の種類を 花の香りを

    ひい ふう みい よお と数えながら

    くうん くうん と心の中で鳴いてます

 

    僕は90歳になりました

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