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「藤原正彦の代表的日本人」を読む

2025年01月08日 | 読書

「藤原正彦の代表的日本人」(文藝春秋)を読んでみた、この本は日清戦争後に列強で広がった黄禍論を見て、内村鑑三が「代表的日本人」を著したのを参考に、著者が「日本人」の美質を体現した人という観点から、江戸時代から二人、明治時代から三人を選んで書いたものである

藤原教授の本は何冊か読んだことがあり、文藝春秋でも毎月投稿されているので楽しみに読んでいる、歴史や時事問題についても博学なところを存分に示されており、啓発されることも多い、ただ、私は藤原教授の歴史認識について同意できないところもある

今回読んでみて感心したところなどを書いてみたい、それにはこの五人の日本人の偉業に直接関係ない当時の状況説明的な著者の記述に対する感想もある

関孝和

  • 算聖と呼ばれた大天才だが個人的にはあまり興味がわかなかった

上杉鷹山

  • 上杉鷹山が米沢藩の再建に成功したのは①「民の父母」すなわち惻隠の情があった、②倹約のみならず大々的な殖産を奨励した、③良きブレーンと胆力、④自立を目指した不屈の精神があったためだった
  • 今の政治家は上記のいずれもない、属国となり果てて70余年、安全と繁栄さえあれば属国でも何でもよいではないかと安住に浸っている、国家の安全と繁栄は確かに重要だ、しかしそれはあくまで独立自尊のための手段に過ぎない、この主客を転倒して、日本人としの誇りを忘れているから、自ら決断することもできず「平和を愛する諸国民」の意向を右顧左眄して歩むしかない
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    その通りだと思う、こんな日本の状況を歓迎しているのが我が国周辺の覇権国家である、自民党ももう左派勢力だろう、隣国の懐柔工作が成功しているのがいまの日本だ

福沢諭吉

  • 咸臨丸航海の際、大した働きもせず、わがままを言っては木村提督や乗組員といざこざばかり起こすくせに大言壮語する勝海舟が癪にさわり、諭吉は「口先だけのほら吹き男」とみなした
  • 勝海舟が江戸を救ったのは俺だと自慢しいることに対し、「とんでもないことだ、自国がはるかに強い敵に攻められた場合、たとえ勝算が無くても死に物狂いで戦うべきである、その後にようやく和平をするか討ち死にするかを選ぶのである、先ずはやせ我慢して戦うのが正しい道である、勝にはやせ我慢が欠けている、何よりも立国の士風を弛めた、この点で国家に甚大な損害をもたらしたのだ、列強強国からの侵略があった場合に、そんな考えでどうするのだ」と言った
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    その通りだと思う、終戦後の日本人は占領軍と左派勢力により牙を抜かれているがウクライナはまさに諭吉が言っていることを実践していると言えよう、いまや自民党も隣国からあの手この手で篭絡されて完全に牙を抜かれた
  • 榎本武揚は勝と違い箱館で力尽きるまで戦ったのは良かったが、新政府に入り大臣、子爵と出世したから気に食わない、これでは箱館五稜郭において榎本の命に従い戦死した者たちに合わせる顔がなかろう
  • 福沢には勇み足や矛盾が多く、理路整然を貴ぶ学者たちの付け入るスキだらけだった、例えば「脱亜論」である、諭吉の脱亜論はそれまでの経緯、当時の情勢から当然であったから騒がれなかった、亜細亜蔑視と騒がれたのは60年あまりたった戦後である、日本の戦前をことごとく否定したいGHQの気に入りそうなことを書き、職を得たり地位を得たいと思う学者やジャーナリストが多くいたのである
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    これは今も同じでしょう、左派的なことを言っていれば新聞やテレビで使われることが多くなり知名度が上がるのでそうしているのでしょう、こんな学者やジャーナリスなどは風向きが変われば簡単に転向することは松本清張の小説「カルネアデスの舟板」で紹介した通りである(こちら参照)
  • 諭吉は「東西の人民、風俗を別にして情意をを殊にし、数千百年の久しき各々その国土に行われた習慣はたとえ利害の明らかなるものといえども、直ぐにこれを彼に取りてこれに移すべからず」と述べているが、18世紀の英国の思想家エドマンド・バークが「フランス革命の省察」で「制度、慣習、道徳、家族、などには祖先の英知が巨大な山のごとく堆積している、人間の知力は遠くそれに及ばない、理性への過信は危うい」と諭吉と同じことを述べている、日本は諭吉の言葉を忘れ、武士道精神では弱いものいじめに過ぎない帝国主義に浮かれ、伝統や慣習をひっくり返し、冷戦後の米英主導による新自由主義にからめとられた、その結果、経済が人間の幸せより上に立つ、という本末転倒の世界が現出し、今はポリコレなるキレイゴトに振り回されている
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    私が日ごろ感じている「知性万能を疑う精神的態度」の必要性を諭吉が主張していたとは忘れていた

河原操子

  • 河原操子は明治8年松本生れ、もののあわれに裏打ちされた控えめでやさしく、思いやりにあふれた女性であった、その古き良き伝統を芯とし、ごく自然に振舞いつつ偉大な勇気、決意、大胆さを発揮して日蒙を繋ぐ女子教育の先駆者として世界に羽ばたいた女性であった
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    この河原操子さんもすごい人、立派な女性だったと初めて知った、日本人としての奥ゆかしさを持った立派な女性こそ今に生きる日本女性が目指すべき一つのロール・モデルだと思う

芝五郎

  • 芝五郎は海津藩士芝佐多蔵の五男として万延元年に生まれ、長じて軍人となり義和団事件の際、公使館付武官であった五郎の活躍により列強各国、特に英国の信頼を得、後の1902年の日英同盟成立に大きな貢献をした
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    この芝五郎の功績はもっともっと日本人が知るべきであり、教科書にも書くべきでしょう
  • 大政奉還の直後、朝廷から「討幕の蜜勅」が下った、これは多くの学者が「偽勅」と指摘している、西郷、大久保、岩倉の三人による謀議によるものと推測されている、薩長には新政府における権力を握りたいという強い動機があり、そのためには隠然たる勢力を持つ幕府を武力討伐すべきと考えていた
  • 江戸城開城後も薩長は矛を収めず長州や薩摩は会津藩や庄内藩を討伐した
  • 長州が会津征伐を強く主張したのは、蛤御門の変で御所に大砲を撃つという前代未聞の不敬を働いた長州を京都守護職の会津藩は徹底的に撃破したうえ、その後の長州征伐でも中心となったから
  • 薩摩は江戸の治安を乱すことで幕府の威信を傷つけようと、浪人やヤクザなどを用い放火、略奪などの狼藉を働いていた、彼らが決まって三田の薩摩藩邸に逃げこむのを見た江戸市中取締役の庄内藩は、犯人を出せと言ったが一切言うことを聞かなかったので薩摩藩邸を焼き払った
  • 長州も薩摩も犯罪行為を咎められただけなのに、逆恨みをしたのであった、薩摩藩邸焼き打ちの報を京都で耳にした西郷は「始まりました」と居合わせた土佐藩の谷千城に言ってにやりと笑った
  • 新政府は会津藩を南部藩領であった下北半島三万石に移封した、六十七万石だった大藩の会津藩にとっては厳しい処遇で、日本史上見当たらない全藩民流罪という残酷無慈悲な処置であった
  • 後年「会津藩や庄内藩は封建制護持の元凶として討ったが会津や庄内の農民や町人は新政府軍を歓迎した」などと藩閥政治下では言われたが、よくある権力者による歴史捏造にすぎなかった
  • 維新後、西郷は西南戦争で自決し、大久保利通は暗殺された、権力掌握のため何の理由もなく会津に朝敵の汚名をかぶせたうえ血祭りにあげた元凶二人の非業の最期を聞き、五郎は二人の死を「天罰」とひそかに思い、溜飲を下げた
  • 廃仏棄却は千年余りにわたる伝統文化を破壊した恐るべき犯罪であった、薩長の無知無教養な若輩たちによる歴史上類のない蛮行であった、大政奉還のあった年には吉田松陰の四天王と言われた久坂玄瑞や高杉晋作など、また、佐久間象山、橋本左内、藤田東湖、横井小楠など維新をリードした高い知性の人々は他界あるいは隠退していたため、維新は薩長の見識も良識もない若い武断派下級武士たちによる血なまぐさいクーデターとなり、そのうえ彼等がそのまま政治の中枢に居座ることになったから、法外な人的犠牲や文化的犠牲が発生した

コメント
薩長の上に紹介したような残虐非道な行動をここまで書いたものを読んだのは初めてだ、これは一つの見方だろうがあたっている部分もあるでしょう、ただ、これだけ読んで維新の元勲らの評価を下すのは危険な気がする、現に薩長中心の新政府はそれ以外の藩からも芝五郎をはじめ有為な人物を登用し、日清・日露戦争に適切に対応できたのであるからその点は立派なものだと思う

勉強になりました



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