23日は係わりのある人々の墓参でした。
毎月のようにお参りできる 墓、もう私たちしか行かない墓、いろいろな想いが去来します。いつも参ってる墓の横にも誰も来ない墓もあります。 私たちも亡くなれば、この墓も草に埋もれるんでしょう。 懸命に子供たちに伝えてるんですが、のちのちお彼岸の行為としてなりたつんでしょうか? また、ほとんど何も残せないわたしたちの墓はなんか意味をもてるんでしょうかね?日々なにがしかを稼いで汲々として生きてる自分と、墓の前でもういない人々の安らかを願ってる私にはたいへんな心の落差がありました。 とにかく知ってた人の安らかさをお祈りしたのでした。
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アン・ドーナツです。よろしく。
「つれづれの想い」を自分自身の日常の
生活に置き換えて熟読しました。
一日に一つでも、爽快だ、愉快だと思える
ことがあれば、それで、「この日、この私は
生きた」と、自らをなぐさめることができます。
どう見ても快いことが無いというならば、
私の奥の手は、寝そべって好きな本を読む
ことです。短時間でもいい、好きなだけ読み
眠りに落ちるのです。
深く生きた記憶をどれほど持ったかで、人の人生は
豊かなものにも、貧しいものにもなるだろうし、
深く生きるためには、ただ受け身なだけではなくて、
あえて挑むとか、実践することが大切なのかもしれ
ませんね。
私には、わかっちゃいるけどそれが難しいです。
とりとめもなく、想いのままを綴りました。ごめんなさい。