九州の何処かの教育委員会のお話
こわいですね。いまだにこんなお話があるんですね。なんだか先に進みたいとおもってるんですが、やっぱりこの国では無理なんでしょうね。少々、社会ができもしない事を頭でっかちに語るのは止めてほしいですね。 それにもましてマスコミの表現はどうなんでしょう。己らだけが正しいんか? と、問いたいね。 すくなくともマスコミは私情なしでニュースを読んでほしいな、それ以上のことは君達には出来ないよ。若い年代からそんなとこで生きてきた人が分かったように言うのは止めてほしい。人間ももっと深いものだし、生きるということは、君達の幼い表現では語れないんです。 それが分からないんだったら、そうですね、表現することは辞めなさい。 と、最近 特に言いたいんだけど、・・・・。
形式を決めることは、もうすでに死の領域に踏み込んだ段階だと、いつも自分に言い聞かせてきました。が 不思議なもんで最近、深いとこで必死にスタイルを目指してる自分に会います。はずかしながら長らえた我は、尊崇してた人々をすでに超えてしまった齢だけに頼ることもできずに、時間のみ越えます。 はっきりいって力足りなく、この生も無常であるわけなんですが、どういうわけか、表現のスタイルを強く求めるようになってます。なにも始まらないのは分かってますが。分からない次が始まるような気持ちだけして。
岳人の特集で「一人で行く山」なるものが 7月分でした。
結構面白かったんですが、加藤文太郎が1行も無いのは、別格ということなんでしょうかね?
なんだか消化不良なのは、年代なのかな~。 と、 愚痴りたい。