登山における究極の快(フロー)とは
それぞれの個の実力にみあったちょうどよい挑戦にあたいする登りかただと確認する。
それ以上だと不安になるし、それ以下だと退屈になる。 という。
登山者はでも日々進化するものだし、その丁度に値する登山もそれにともなって日々変化していく。だとすると、わたしの登山のフロー体験は意識できる意味としてどんな感じなんでしょうか?とりあえず感覚としては、不安になる直前のぎりぎりの登り、もしかして不安感のなかにすこし入ったところが、もっとも緊張感があってもっとも充実できる登りになるんでしょうな。今年は、雪の不安、自己の体力の不安等等、そこいらへんと仲良くつきあいながらこれからもフロー体験をしたいな。山に取りつかれた人とはフローの世界を知った人でしょう、たとえそれがデスゾーンであったとしても・・・・・・
岳人に案内があった携帯雪洞というものを手にいれました。テント、シュラフがいらないというすぐれものだとか?これだけ持って雪のなかで寝て・・・さて、起きれるんでしょうか?いっぺん確かめてみないととおもってます。結果そのうち連絡いたします。能書きどおりだと革命ですね。とくにザックの重さに弱くなった私には・・テントをツェルトに代行できればな~
今年は、雪が深く登山は楽しいものの、人々の生活をおもうとなんだか私のような山行きは後ろめたさを感じる。去年だったか台風でひどく傷ついた村々の稜線を歩いたときも同じ匂いの感慨がした。わたしの山行きが日常の生活から離れてない行為だということでしょう。もっともっと日常からはなれた山がほしいな~と思う。危険な傾向だが、そこらへんの位置まで行かないと私の山にならないようなきがする。この深雪で無性に雪洞で寝たくなった。まったくの自然の雪に同化して、おいしいお酒を一杯やりたいな。それも一人がいいな・・・と思う。