なぜ山にひかれるのか?を考えてみる。わたしの場合は、時間の長さの違いがあんまりにも大きいがゆえに絶望することと反対にわれの微細さをはっきり認識することが精神的にあいまいさのない潔さとでも言いますかとにかく山に向かったとき、すがすがしいんです。肉体をもった人(私)のあやふやな短い生の時間と、気の遠くなるような自然(山)の悠久の時を感じる時、人(私)は自分の居場所と意味を見出します。ほんとにちっぽけな存在をきっちり自覚するというか、認識するというか、とにかく自分は今これなんだと。そんなきちんと理解できる心の形がいいですね。まあ、とやかく言わず山へ向かいたい。
mt.ゴリラさんコメントありがとう。おっしゃるように、あとどれくらい山に出会えるかということが身近なおもいになってきてますが、わたしとしてはいつまでもとおもってますよ。ここんとこ久しぶりに根を詰めた感じにもなってますし、ますます深く山に対してる感じがしてます。もちろん、岳友のみなさんのおかげだとおもいますが、・・・若い時とちがった感興も多くやっぱりそれなりの山々です。また、むかし読んだ山に関する本も再読、再々読してます。ほとんど忘れてしまっててはじめて読むのとおんなじなんですが。なんだか力がはいります。忘れたくないところをこのブログにも引用させてもらって書きながらおもいだしてます。連休の山行が実り多いことを!!
今日もなんやかやと雑用が多く山に行けなかった。わたしのような仕事では時間の捻出が難しいことを実感する。それも長い時間かかって自分で選んできた道だから仕方がない、これが生き様ですから・・・・・。まあ、こんなところで悩みながらいくんでしょうな。こんどは連休「山へ行くぞ」とはりきってみる。
山の頂や峠は時空間の特異点。そこにひろがるポエジー・スクリーンには、心や身体のわくわくするような新しい発見、あるいは心や身体は意のままにならぬものだという不条理の発見が映し出されよう。いずれにせよ、山の風としずかに共振したとき、新しいライフデザインの扉を開く処方箋が生まれてくるに違いない。(神尾重則)岳人2006/4
BS募集ののち昼からいつもの岩場に遊びに行く。
天気もきょうは回復していい感じで独占でした。右岸を2回、左岸を1回 down/upでした。下部は先日来の雨でズルズルしてたので、かなしいかなゴボウでしかあがれなかった。
友人たちは山菜山行きとか・・・・・時間があったらよかったんだけど。こればかりは山よりむつかしいです。