室町時代に画聖と称された雪舟に関しては、以前にこのブログで2つの国宝作品を取り上げた。今回もまた入魂の最高峰である。「秋冬山水図」という作品。まずはこの写真画像を見ていただきたい。恐らく国宝全6作品の中で、最もインパクトが強い絵ではないか。写真の画像は雪舟の特集記事から撮影した為に、その本を置いたテーブルも左端に映ってしまったのだが、それを差し引いても絵が醸しだす孤高の存在感を認識していただけるはずだ。もう一目瞭然であろう。天地を切り裂くような、ほぼ垂直に走る鋭い線に、私たちは見事に既成概念を覆され、一瞬で釘付けになってしまう。
「秋冬山水図」は秋景と冬景の2つの山水画で構成されているのだが、今回は冬景のみに絞りたい。またネット検索で、雪舟の「秋冬山水図」と入力すればデジタルではあっても、その全貌を把握することができる。そしてこの不可解極まりない衝撃的な描線は、水墨で表現される山水画のジャンルにおいて、雪舟の独創というわけではない。実はこの線、硬質な崖の輪郭をなぞっているのだ。恐らく雪舟にはこの崖を極端に強調して描く意図があったように思われる。
ここで少し推論を述べさせていただく。それは雪舟がこの「秋冬山水図」を制作したのは、多分あの「山水長巻」を完成させた後ではないかということだ。特に秋と冬で歴然と風景の印象が切り替わる展開は同様であり、それが鑑賞者へ真摯な問いかけを投げかけてくる。このブログでも紹介した「山水長巻」は、大内政弘という時の権力者に献上された作品であり、その権力を行使する張本人に向けて、オブラートに包んではいても圧政ではなく善政を敷くべきだというメッセージを作者の雪舟が込めていた。しかしこの「秋冬山水図」の場合、もっとダイレクトな問いかけが感じられる。なぜならこの作品が収められたのは京都の曼殊院であり、室町幕府やそれに準じた武家勢力ではなかったからだ。つまりこの絵では雪舟の表現に遠慮が無い。
室町時代の曼殊院は京都の天台宗の寺院だが、天台宗の本拠地である比叡山の延暦寺とは一線を画していた。延暦寺が僧兵軍団を組織して、朝廷や鎌倉幕府や当時の室町幕府に対して軍事的圧力をかけられるほど武装化していたのとは対照的にである。そして室町時代初期の南北朝期においても、北朝と南朝の両方へ対話の門戸を開いていたことでも知られる。
「秋冬山水図」が納められた曼殊院が、室町幕府という軍事政権に保護された臨済宗の本拠地の相国寺や、天台宗の本拠地の比叡山延暦寺と異質だったのは、仏教の理念を尊重するように武力を敬遠していたことだ。そして波風をたてない小規模で地味なその存在感が、幕政からの介入を上手くかわせていたのではないか。これは雪舟にとって望ましい事実であったはずである。
明国に渡った雪舟は、そこで雄大な中国大陸の風景に感化され、本場の絵画表現における墨や色の描法も大いに学び、特段の成果を得たことを述懐しているが、と同時にほぼリアルタイムの中国で遭遇した明の時代の絵よりも、南宋や元の時代の絵に惹かれるとも述べている。これは注目すべき点だ。そしてこの真情こそが、この「秋冬山水図」を創造する契機になったと思われる。
ここで中国史の王朝交代について暫し考えてみたい。雪舟が生きた時代の明はモンゴルの異民族王朝の元を滅ぼして中国大陸を再統一した漢民族が再興した王朝であった。この為に元という、衛星国も含めると極東は朝鮮半島から中国大陸、東南アジア、中央アジア、ロシア、東ヨーロッパ、中東にまで及ぶ史上最大の版図を誇った世界帝国とは随分と規模や趣が異なる。これはグローバル化した中国がローカル化したということだ。そして元に滅ぼされた南宋は漢民族の王朝ではあっても、かつて宋として中国大陸全域に覇権を唱えていた時期とは異なり、北半分を異民族に侵略されて衰退期に入っていた。しかし雪舟は明よりも南宋や元の時代の絵を評価している。
なぜなのか、それは恐らく南宋や元の時代はグローバルであり、山水画の様式美の中にも洋の東西を越えた何処か自由で多様な表現が介在していたのではないか。そして相国寺で絵を学んでいた頃の雪舟は、師の周文や如拙の絵にもそれを発見していたように思えるのだ。事実、周文や如拙は南宋や元の時代に制作された中国絵画を原型にして彼ら固有の絵画世界を創造している。また明に渡ってからの雪舟の絵画表現には、モノクロをベースにしていても、西方のイスラム教圏やキリスト教圏の絵の具を使用して控えめに色味を出していた可能性さえある。
雪舟は絵師である前に幕府御用達の臨済宗の禅僧であった。謂わば室町幕府の官僚的組織に属していた。しかし彼の生涯の道程から読み解くなら、少年の小坊主時代に寺の修行に馴染めず柱に縛り付けられたり、逃げるように京の都から離れたり、壮年になってから大胆に明国へ渡航したりと、管理社会に背を向けた行動が多かった人物だと解釈できる。ここから想像可能なのは、雪舟は日本列島から中国大陸に居を移して、失望や落胆も経験したということだ。多分彼は日本の管理社会のルーツが、実は中国にあったということに気付いたのではないか。
そしてこうしたことを踏まえると、この「秋冬山水図」の冬景の凄みも理解できる。崖の輪郭を垂直に走る特徴的は線は、絵全体を破綻させるほど迫力全開だが、そこにはこの世界は本当にこれで良いのかという問いかけが感じられる。これは秋景が牧歌的なイメージに満ちており、建物や船、それに2人の人間が自然を利用する人類の文明の象徴のように描かれているのとは対照的だ。
特に冬景における天地を切り裂かんばかりの垂直線の下をたった1人で歩く人間の姿からは、現代人にも通じる孤独や不安が垣間見える。彼の体が画面奥の人里に向けて歩いているのは明白だが、傘の下の顔は目や鼻や口が描かれずとも、鑑賞者の私たちへ向けられているようだ。つまり彼は自らが歩いて来た道を振り返り、過去に居た場所に未練を残している。そして歩みを進める体は、それでも人里へ帰ろうとしているのだろう。しかしそこにはある種の諦念が滲み出てはいまいか。その帰るべき居場所が彼にとって居心地の良い場所とは思えないからだ。そのことは建物の背後に聳える不気味な白く高い塔のような山々が象徴的に示している。冷たい雪に覆われた人里は、上下関係や身分差の厳しい村社会なのかもしれない。ゆえにこの絵に描かれた風景は美しくはない。むしろ振り返った男が見ているその先に在る風景こそが、人里離れた美しい桃源郷であろう。ひょっとすると男は一端は村から逃げて、自然だけの質素に自給自足が成り立つ世界に身を置いたか、あるいは純粋に自然へ還りたい気持ちで胸が一杯なのか。そこは私たち鑑賞する側の想像に任せるしかないのだが、この男は小さな点景ではあっても、非常に興味深い人物である。
豊穣な実りの秋から冬の厳然とした光景で様相が一変してしまうのは、あの「山水長巻」と同じ仕掛けではあるものの、「秋冬山水図」の表現のスタイルは全く違う。この衝撃的な筆触で引かれた垂直線は、大上段から振り落とされた神刀の一撃である。そしてその一撃をもってして、古代の中国大陸から東南アジアや朝鮮半島それに日本列島までをも覆い尽くした、広大な儒教圏の厳重に統制された管理社会を否定している。この絵の中の男の心情を推し量るなら、男は此処から何処かへ行ったが、その何処かが此処と余り変わらないと悟った可能性はある。そして此処に留まり此処から何処かを遠く眺めていることを望むに至った。この心境は儒教ではなく老荘思想に近いが、老荘思想の域へはまだ入り込めていない。何より絵がそれを明確に教えてくれている。絵の2次元空間で崖の垂直線の真下を歩く男は、この絵を3次元空間に変換したとすると、巨大な崖を既に越えて人里の村落の領域に入っているからだ。そこは儒教の社会通念に縛られた同調圧力の強い場である。
やはりこの絵を鑑賞すると、雪舟が室町幕府の体制下にあった、彼の生きた時代の日本社会に相当な疑問を抱いていたことがわかる。そして絵師であると同時に禅僧でもあった彼にしてみれば、幕府に手厚く保護されて管理された臨済宗の現状を憂いていたことも容易に想像できる。要するに政治利用される仏教に幻滅していたのであろう。「秋冬山水図」は大作ではなくコンパクトな作品だが、あの垂直に走る描線とその筆触は、美術史に残る至宝だ。絵の中で人里へ戻る道を選んだ男が振り返り見つめるこちら側には、絵を鑑賞する私たちの現代世界も存在している。「絵は見る人によって生命を得る」と語ったのはピカソだが、生命を得たこの雪舟の絵に住む彼は時空を超越して問いかけてくる。果たして私たちの生きるこの世界が、本当に今のままで良いのかと。
「秋冬山水図」は秋景と冬景の2つの山水画で構成されているのだが、今回は冬景のみに絞りたい。またネット検索で、雪舟の「秋冬山水図」と入力すればデジタルではあっても、その全貌を把握することができる。そしてこの不可解極まりない衝撃的な描線は、水墨で表現される山水画のジャンルにおいて、雪舟の独創というわけではない。実はこの線、硬質な崖の輪郭をなぞっているのだ。恐らく雪舟にはこの崖を極端に強調して描く意図があったように思われる。
ここで少し推論を述べさせていただく。それは雪舟がこの「秋冬山水図」を制作したのは、多分あの「山水長巻」を完成させた後ではないかということだ。特に秋と冬で歴然と風景の印象が切り替わる展開は同様であり、それが鑑賞者へ真摯な問いかけを投げかけてくる。このブログでも紹介した「山水長巻」は、大内政弘という時の権力者に献上された作品であり、その権力を行使する張本人に向けて、オブラートに包んではいても圧政ではなく善政を敷くべきだというメッセージを作者の雪舟が込めていた。しかしこの「秋冬山水図」の場合、もっとダイレクトな問いかけが感じられる。なぜならこの作品が収められたのは京都の曼殊院であり、室町幕府やそれに準じた武家勢力ではなかったからだ。つまりこの絵では雪舟の表現に遠慮が無い。
室町時代の曼殊院は京都の天台宗の寺院だが、天台宗の本拠地である比叡山の延暦寺とは一線を画していた。延暦寺が僧兵軍団を組織して、朝廷や鎌倉幕府や当時の室町幕府に対して軍事的圧力をかけられるほど武装化していたのとは対照的にである。そして室町時代初期の南北朝期においても、北朝と南朝の両方へ対話の門戸を開いていたことでも知られる。
「秋冬山水図」が納められた曼殊院が、室町幕府という軍事政権に保護された臨済宗の本拠地の相国寺や、天台宗の本拠地の比叡山延暦寺と異質だったのは、仏教の理念を尊重するように武力を敬遠していたことだ。そして波風をたてない小規模で地味なその存在感が、幕政からの介入を上手くかわせていたのではないか。これは雪舟にとって望ましい事実であったはずである。
明国に渡った雪舟は、そこで雄大な中国大陸の風景に感化され、本場の絵画表現における墨や色の描法も大いに学び、特段の成果を得たことを述懐しているが、と同時にほぼリアルタイムの中国で遭遇した明の時代の絵よりも、南宋や元の時代の絵に惹かれるとも述べている。これは注目すべき点だ。そしてこの真情こそが、この「秋冬山水図」を創造する契機になったと思われる。
ここで中国史の王朝交代について暫し考えてみたい。雪舟が生きた時代の明はモンゴルの異民族王朝の元を滅ぼして中国大陸を再統一した漢民族が再興した王朝であった。この為に元という、衛星国も含めると極東は朝鮮半島から中国大陸、東南アジア、中央アジア、ロシア、東ヨーロッパ、中東にまで及ぶ史上最大の版図を誇った世界帝国とは随分と規模や趣が異なる。これはグローバル化した中国がローカル化したということだ。そして元に滅ぼされた南宋は漢民族の王朝ではあっても、かつて宋として中国大陸全域に覇権を唱えていた時期とは異なり、北半分を異民族に侵略されて衰退期に入っていた。しかし雪舟は明よりも南宋や元の時代の絵を評価している。
なぜなのか、それは恐らく南宋や元の時代はグローバルであり、山水画の様式美の中にも洋の東西を越えた何処か自由で多様な表現が介在していたのではないか。そして相国寺で絵を学んでいた頃の雪舟は、師の周文や如拙の絵にもそれを発見していたように思えるのだ。事実、周文や如拙は南宋や元の時代に制作された中国絵画を原型にして彼ら固有の絵画世界を創造している。また明に渡ってからの雪舟の絵画表現には、モノクロをベースにしていても、西方のイスラム教圏やキリスト教圏の絵の具を使用して控えめに色味を出していた可能性さえある。
雪舟は絵師である前に幕府御用達の臨済宗の禅僧であった。謂わば室町幕府の官僚的組織に属していた。しかし彼の生涯の道程から読み解くなら、少年の小坊主時代に寺の修行に馴染めず柱に縛り付けられたり、逃げるように京の都から離れたり、壮年になってから大胆に明国へ渡航したりと、管理社会に背を向けた行動が多かった人物だと解釈できる。ここから想像可能なのは、雪舟は日本列島から中国大陸に居を移して、失望や落胆も経験したということだ。多分彼は日本の管理社会のルーツが、実は中国にあったということに気付いたのではないか。
そしてこうしたことを踏まえると、この「秋冬山水図」の冬景の凄みも理解できる。崖の輪郭を垂直に走る特徴的は線は、絵全体を破綻させるほど迫力全開だが、そこにはこの世界は本当にこれで良いのかという問いかけが感じられる。これは秋景が牧歌的なイメージに満ちており、建物や船、それに2人の人間が自然を利用する人類の文明の象徴のように描かれているのとは対照的だ。
特に冬景における天地を切り裂かんばかりの垂直線の下をたった1人で歩く人間の姿からは、現代人にも通じる孤独や不安が垣間見える。彼の体が画面奥の人里に向けて歩いているのは明白だが、傘の下の顔は目や鼻や口が描かれずとも、鑑賞者の私たちへ向けられているようだ。つまり彼は自らが歩いて来た道を振り返り、過去に居た場所に未練を残している。そして歩みを進める体は、それでも人里へ帰ろうとしているのだろう。しかしそこにはある種の諦念が滲み出てはいまいか。その帰るべき居場所が彼にとって居心地の良い場所とは思えないからだ。そのことは建物の背後に聳える不気味な白く高い塔のような山々が象徴的に示している。冷たい雪に覆われた人里は、上下関係や身分差の厳しい村社会なのかもしれない。ゆえにこの絵に描かれた風景は美しくはない。むしろ振り返った男が見ているその先に在る風景こそが、人里離れた美しい桃源郷であろう。ひょっとすると男は一端は村から逃げて、自然だけの質素に自給自足が成り立つ世界に身を置いたか、あるいは純粋に自然へ還りたい気持ちで胸が一杯なのか。そこは私たち鑑賞する側の想像に任せるしかないのだが、この男は小さな点景ではあっても、非常に興味深い人物である。
豊穣な実りの秋から冬の厳然とした光景で様相が一変してしまうのは、あの「山水長巻」と同じ仕掛けではあるものの、「秋冬山水図」の表現のスタイルは全く違う。この衝撃的な筆触で引かれた垂直線は、大上段から振り落とされた神刀の一撃である。そしてその一撃をもってして、古代の中国大陸から東南アジアや朝鮮半島それに日本列島までをも覆い尽くした、広大な儒教圏の厳重に統制された管理社会を否定している。この絵の中の男の心情を推し量るなら、男は此処から何処かへ行ったが、その何処かが此処と余り変わらないと悟った可能性はある。そして此処に留まり此処から何処かを遠く眺めていることを望むに至った。この心境は儒教ではなく老荘思想に近いが、老荘思想の域へはまだ入り込めていない。何より絵がそれを明確に教えてくれている。絵の2次元空間で崖の垂直線の真下を歩く男は、この絵を3次元空間に変換したとすると、巨大な崖を既に越えて人里の村落の領域に入っているからだ。そこは儒教の社会通念に縛られた同調圧力の強い場である。
やはりこの絵を鑑賞すると、雪舟が室町幕府の体制下にあった、彼の生きた時代の日本社会に相当な疑問を抱いていたことがわかる。そして絵師であると同時に禅僧でもあった彼にしてみれば、幕府に手厚く保護されて管理された臨済宗の現状を憂いていたことも容易に想像できる。要するに政治利用される仏教に幻滅していたのであろう。「秋冬山水図」は大作ではなくコンパクトな作品だが、あの垂直に走る描線とその筆触は、美術史に残る至宝だ。絵の中で人里へ戻る道を選んだ男が振り返り見つめるこちら側には、絵を鑑賞する私たちの現代世界も存在している。「絵は見る人によって生命を得る」と語ったのはピカソだが、生命を得たこの雪舟の絵に住む彼は時空を超越して問いかけてくる。果たして私たちの生きるこの世界が、本当に今のままで良いのかと。
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