最近、米国の作家ポール・オースターの訃報を知った。肺がんの合併症で4月30日に77歳で他界されていた。彼の小説に親しんできた身としては誠に残念である。最初にオースター作品に出合ったのはニューヨーク3部作とよばれる「ガラスの街」と「幽霊たち」と「鍵のかかった部屋」で、きっかけは新聞の夕刊の文芸時評でこの個性的な作家が紹介されていたことだ。
大学を卒業するまで田舎育ちだった私は1980年代後半から16年ほど東京に住むことになり、オースターの描く都市の姿には実感を伴う親近感も湧いた。東京は日本の首都であり、日本各地から絶えず人間が流入してくる為、多様性に富み、日本人に特有の島国根性や村意識からくる偏見も少ない。他人への関心も薄く、隣人が正体不明でも我関せずの世界だ。この感覚はオースターの小説を読んでいると、水を得た魚のように共有できる。
東京で暮らしはじめて数年が経過した頃、仕事が休みの日に図書館へ出向いてオースターの小説を探していたら、運よく「幽霊たち」を借りれた。1日で読了できるほどの中短編小説だが、文体のリズムも心地良く、その読後感は素晴らしかった。そうなると当然、3部作の残り2作品も読みたくなってしまい、「幽霊たち」を図書館へ返したところ、生憎「ガラスの街」と「鍵のかかった部屋」は貸出中だった為にその後、タイミングが合った時に借りて読んだ。ただ初めてオースターの小説世界に遭遇したのは「幽霊たち」であり、この探偵小説のスタイルで描かれた物語には、何度も読み返したくなるほどの愛着を覚えた。多分、現代アメリカ文学において、自分に最も相性の合う作家がポール•オースターだったといえる。
オースターに固有の淡々とした語り口から想像可能な風景は、一見すると整然として冷たい抽象的な都会の景観なのだが、そこには不思議と孤独ゆえの自由と、自由ゆえの孤独が社会から認められ許されている安心感がある。これは他者を侵害しない自由の容認を意味する。基本的人権が保障されている状態であり、なおかつそれは皮肉にも都会の居心地の良さなのかもしれない。
そして「幽霊たち」は探偵小説のスタイルをとっていながら、謎解きが主題ではなく、むしろ主人公の自分探しが核になっている。他人に依頼された探偵の任務を続けながら、この主人公はどこか自由自在に行動し、自ら望んで孤独に浸ろうとしているかのようだ。結末は哀愁を誘うし、白日の下に曝されるようにして真実も明らかになるのだが、このラストは読者が如何様にも解釈可能なのだと、作者オースターからのそんな問いかけも感じられる。
このニューヨーク3部作を読んで以降、「ムーン・パレス」、「偶然の音楽」、「リヴァィアサン」、「ミスター・ヴァーディゴ」、「幻影の書」、「オラクル・ナイト」、「闇の中の男」といった小説を読んできたが、私個人にとってのポール・オースターの最高傑作は「闇の中の男」である。また「偶然の音楽」を読んだ辺りから、オースターは実のところ世直し作家なのではないかという確信も芽生えだした。実際、この作家は寓話的な小説作品も多いのだが、創造された物語を読み返すとその殆どは社会批判的であり、しかも場当たり的な批判とは違い、人類の文明のシステム自体に、歴史的事実や彼の歴史観を踏まえた上でその核心に踏み込んでいる。
特に「偶然の音楽」は、強運で傲慢な支配力に圧殺されてしまう人間の悲劇が描かれているのだが、ラストシーンは衝撃的にそれを全開で訴えていた。組織において上層から強制される命令は、それを受ける下層の人々にとっては心に突き刺さる不快な異物のようなものだ。それゆえ命令に従っても被支配者の心に責任感が生まれることはない。そして悲嘆すべきは、当の命令を発する支配者こそが限りなく無責任であることだ。この小説ではそんな構図を深く考えさせられる。また元来、オースター自身が政治的な発言も確りとされていた人なので、大きな天災や人災で未曾有の危機に直面している現代世界において、まだまだ存命でいてほしかった文化人の1人だ。
「闇の中の男」が発表されたのは2008年頃で、米国発の世界的金融危機となったリーマンショックが発生した時期と重なる。これは2期続いていた共和党のブッシュ政権が、9.11の大規模なテロに連動したイラク戦争の動乱に始まり、20世紀の世界恐慌に匹敵する経済的大不況の騒乱で終わった8年間の家族の物語だ。しかしオースター作品らしいのは、物語の中に物語が存在する劇中劇の形式になっていることで、主人公は米国に住む老作家であり、彼の脳裏で展開する構想中の物語では、本土攻撃の9.11テロが発生しなかった、もしもの米国社会が出現する。しかもそこでは南北戦争のような内戦が起きていた。
そんな妄想に近い世界と、老作家の日常が描かれており、彼は孫娘と二人で暮らしている。一見すると静かな生活を思わせるが、別居している娘は夫に去られた辛い過去があり、身近な孫娘も兵役とは無縁の恋人をイラク戦争で亡くしていた。老いた男は心に傷を負った肉親と共に生きているのだが、この空想と現実の交差する物語全編にはテロや内戦や戦争といった残酷で破壊的な暴力への拒絶感と、そのような世界の破滅因子を溶解し消滅させるものは、やはり家族愛だと悟らせるような哀感と希望に満ちている。
この「闇の中の男」には、戦争未亡人が登場する日本映画「東京物語」のエピソードも挿入されており、ポール•オースターが元来、強い反戦意識を持っていることは疑いようがない。実際、米国政府が民主主義の旗を振りながら、その裏で軍産複合体と癒着して軍事介入を海外で行う政策を、小説を含めた著作やメディアを通した発言で批判しているし、それは「闇の中の男」を読んでもよく理解できる。
そしてこの物語の主役の老作家が空想する世界では、内戦が勃発するほど米国の分断がエスカレートしているわけだが、これは今の米国で現実に分断が非常に深刻になってしまったことを鑑みると、オースターの洞察や見識は近未来を予知できるほどに優れていたといえる。元々米国は移民によって成立した多民族国家であり、そこでは寛容と分断がコインの裏表のように存在する。そしてそんな長所と短所を明確にした上でその行末を案じ、オースターはこの超大国の病巣に対する処方箋を、小説家を本業とする文学者として真面目に探究していたようだ。
近年のオースターの政治的態度で有名なのは、2016年の米国大統領選に勝利したドナルド•トランプの登場にショックを受けて、米国の存在と未来に悲観し絶望感に苛まれていた姿である。これは過去にイラク戦争を主導したブッシュ政権に抗議した彼にしてみれば察して余りある当然の心境であろう。オースターは世界をゼロサムの概念で定義し、その上で敗者ではなく勝者であり続ける強い米国、偉大な米国をスローガンにするホワイトハウスなど信用できなかったし、不誠実で不平等な社会が到来することなど、勿論のこと望んではいなかった。
そしてそれは彼の小説空間で生きる主役たちの行動や言葉に出会えば一目瞭然であろう。彼らの殆どは、不器用で世間からずれた、謂わば社会の異分子のような存在なのかもしれないが、人生には意味があり、生きる価値があると、そう信じている。たとえ潜在意識ではあったとしても。そしてそんな彼らは、奈落の底で深い悲しみに遭遇しても、心を荒ませないことが大切であり、偏見に囚われず排外的にならなければ、絶望が希望に変換することを知っているようだ。つまり暴力が蔓延り分断へ向かう世界や、人が人を搾取する人間関係や社会には、愛は訪れないし、そもそも生まれようがない。
ポール•オースターの小説は、1980年代後半に欧米で評価されて以降、意外とスムーズに日本でも広く読まれ親しまれるようになった。村上春樹作品との親和性を語られることも多いが、私自身はむしろ安倍公房の小説世界に近い魅力を感じた。特に「幽霊たち」のような探偵小説のスタイルには、米国と日本という時空の違いはあれども、地続きで繋がっていると錯覚させるほどに違和感が無かった。また物語において奇跡的に希少な愛が訪れる瞬間があり、その絶妙なストーリー展開は、闇の中で光の突破口を見つけたような感動を読者に呼び起こす。
また小説に比べると作品数は少ないが、詩やエッセイも創作し、自作の映像化を試みて、映画さえ制作してしまった。そして日本語にはまだ翻訳されていない貴重な作品も存在する。オースター生涯最後の小説「4321」がそれだ。これは著者の最高峰と評されるほど海外での評価が高い。いずれ日本語で読める「4321」が、日本の書店に姿を現すことはほぼ間違いないと思われるが、その日が来ることを心待ちにしたい。この場を借りて、衷心よりご冥福をお祈り致します。
大学を卒業するまで田舎育ちだった私は1980年代後半から16年ほど東京に住むことになり、オースターの描く都市の姿には実感を伴う親近感も湧いた。東京は日本の首都であり、日本各地から絶えず人間が流入してくる為、多様性に富み、日本人に特有の島国根性や村意識からくる偏見も少ない。他人への関心も薄く、隣人が正体不明でも我関せずの世界だ。この感覚はオースターの小説を読んでいると、水を得た魚のように共有できる。
東京で暮らしはじめて数年が経過した頃、仕事が休みの日に図書館へ出向いてオースターの小説を探していたら、運よく「幽霊たち」を借りれた。1日で読了できるほどの中短編小説だが、文体のリズムも心地良く、その読後感は素晴らしかった。そうなると当然、3部作の残り2作品も読みたくなってしまい、「幽霊たち」を図書館へ返したところ、生憎「ガラスの街」と「鍵のかかった部屋」は貸出中だった為にその後、タイミングが合った時に借りて読んだ。ただ初めてオースターの小説世界に遭遇したのは「幽霊たち」であり、この探偵小説のスタイルで描かれた物語には、何度も読み返したくなるほどの愛着を覚えた。多分、現代アメリカ文学において、自分に最も相性の合う作家がポール•オースターだったといえる。
オースターに固有の淡々とした語り口から想像可能な風景は、一見すると整然として冷たい抽象的な都会の景観なのだが、そこには不思議と孤独ゆえの自由と、自由ゆえの孤独が社会から認められ許されている安心感がある。これは他者を侵害しない自由の容認を意味する。基本的人権が保障されている状態であり、なおかつそれは皮肉にも都会の居心地の良さなのかもしれない。
そして「幽霊たち」は探偵小説のスタイルをとっていながら、謎解きが主題ではなく、むしろ主人公の自分探しが核になっている。他人に依頼された探偵の任務を続けながら、この主人公はどこか自由自在に行動し、自ら望んで孤独に浸ろうとしているかのようだ。結末は哀愁を誘うし、白日の下に曝されるようにして真実も明らかになるのだが、このラストは読者が如何様にも解釈可能なのだと、作者オースターからのそんな問いかけも感じられる。
このニューヨーク3部作を読んで以降、「ムーン・パレス」、「偶然の音楽」、「リヴァィアサン」、「ミスター・ヴァーディゴ」、「幻影の書」、「オラクル・ナイト」、「闇の中の男」といった小説を読んできたが、私個人にとってのポール・オースターの最高傑作は「闇の中の男」である。また「偶然の音楽」を読んだ辺りから、オースターは実のところ世直し作家なのではないかという確信も芽生えだした。実際、この作家は寓話的な小説作品も多いのだが、創造された物語を読み返すとその殆どは社会批判的であり、しかも場当たり的な批判とは違い、人類の文明のシステム自体に、歴史的事実や彼の歴史観を踏まえた上でその核心に踏み込んでいる。
特に「偶然の音楽」は、強運で傲慢な支配力に圧殺されてしまう人間の悲劇が描かれているのだが、ラストシーンは衝撃的にそれを全開で訴えていた。組織において上層から強制される命令は、それを受ける下層の人々にとっては心に突き刺さる不快な異物のようなものだ。それゆえ命令に従っても被支配者の心に責任感が生まれることはない。そして悲嘆すべきは、当の命令を発する支配者こそが限りなく無責任であることだ。この小説ではそんな構図を深く考えさせられる。また元来、オースター自身が政治的な発言も確りとされていた人なので、大きな天災や人災で未曾有の危機に直面している現代世界において、まだまだ存命でいてほしかった文化人の1人だ。
「闇の中の男」が発表されたのは2008年頃で、米国発の世界的金融危機となったリーマンショックが発生した時期と重なる。これは2期続いていた共和党のブッシュ政権が、9.11の大規模なテロに連動したイラク戦争の動乱に始まり、20世紀の世界恐慌に匹敵する経済的大不況の騒乱で終わった8年間の家族の物語だ。しかしオースター作品らしいのは、物語の中に物語が存在する劇中劇の形式になっていることで、主人公は米国に住む老作家であり、彼の脳裏で展開する構想中の物語では、本土攻撃の9.11テロが発生しなかった、もしもの米国社会が出現する。しかもそこでは南北戦争のような内戦が起きていた。
そんな妄想に近い世界と、老作家の日常が描かれており、彼は孫娘と二人で暮らしている。一見すると静かな生活を思わせるが、別居している娘は夫に去られた辛い過去があり、身近な孫娘も兵役とは無縁の恋人をイラク戦争で亡くしていた。老いた男は心に傷を負った肉親と共に生きているのだが、この空想と現実の交差する物語全編にはテロや内戦や戦争といった残酷で破壊的な暴力への拒絶感と、そのような世界の破滅因子を溶解し消滅させるものは、やはり家族愛だと悟らせるような哀感と希望に満ちている。
この「闇の中の男」には、戦争未亡人が登場する日本映画「東京物語」のエピソードも挿入されており、ポール•オースターが元来、強い反戦意識を持っていることは疑いようがない。実際、米国政府が民主主義の旗を振りながら、その裏で軍産複合体と癒着して軍事介入を海外で行う政策を、小説を含めた著作やメディアを通した発言で批判しているし、それは「闇の中の男」を読んでもよく理解できる。
そしてこの物語の主役の老作家が空想する世界では、内戦が勃発するほど米国の分断がエスカレートしているわけだが、これは今の米国で現実に分断が非常に深刻になってしまったことを鑑みると、オースターの洞察や見識は近未来を予知できるほどに優れていたといえる。元々米国は移民によって成立した多民族国家であり、そこでは寛容と分断がコインの裏表のように存在する。そしてそんな長所と短所を明確にした上でその行末を案じ、オースターはこの超大国の病巣に対する処方箋を、小説家を本業とする文学者として真面目に探究していたようだ。
近年のオースターの政治的態度で有名なのは、2016年の米国大統領選に勝利したドナルド•トランプの登場にショックを受けて、米国の存在と未来に悲観し絶望感に苛まれていた姿である。これは過去にイラク戦争を主導したブッシュ政権に抗議した彼にしてみれば察して余りある当然の心境であろう。オースターは世界をゼロサムの概念で定義し、その上で敗者ではなく勝者であり続ける強い米国、偉大な米国をスローガンにするホワイトハウスなど信用できなかったし、不誠実で不平等な社会が到来することなど、勿論のこと望んではいなかった。
そしてそれは彼の小説空間で生きる主役たちの行動や言葉に出会えば一目瞭然であろう。彼らの殆どは、不器用で世間からずれた、謂わば社会の異分子のような存在なのかもしれないが、人生には意味があり、生きる価値があると、そう信じている。たとえ潜在意識ではあったとしても。そしてそんな彼らは、奈落の底で深い悲しみに遭遇しても、心を荒ませないことが大切であり、偏見に囚われず排外的にならなければ、絶望が希望に変換することを知っているようだ。つまり暴力が蔓延り分断へ向かう世界や、人が人を搾取する人間関係や社会には、愛は訪れないし、そもそも生まれようがない。
ポール•オースターの小説は、1980年代後半に欧米で評価されて以降、意外とスムーズに日本でも広く読まれ親しまれるようになった。村上春樹作品との親和性を語られることも多いが、私自身はむしろ安倍公房の小説世界に近い魅力を感じた。特に「幽霊たち」のような探偵小説のスタイルには、米国と日本という時空の違いはあれども、地続きで繋がっていると錯覚させるほどに違和感が無かった。また物語において奇跡的に希少な愛が訪れる瞬間があり、その絶妙なストーリー展開は、闇の中で光の突破口を見つけたような感動を読者に呼び起こす。
また小説に比べると作品数は少ないが、詩やエッセイも創作し、自作の映像化を試みて、映画さえ制作してしまった。そして日本語にはまだ翻訳されていない貴重な作品も存在する。オースター生涯最後の小説「4321」がそれだ。これは著者の最高峰と評されるほど海外での評価が高い。いずれ日本語で読める「4321」が、日本の書店に姿を現すことはほぼ間違いないと思われるが、その日が来ることを心待ちにしたい。この場を借りて、衷心よりご冥福をお祈り致します。
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