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伊藤若冲の「果蔬涅槃図」

2024-09-28 22:08:28 | 日記
 前回の「象鯨図屏風」に続いて、今回も伊藤若冲の作品を取り上げたい。あの「象鯨図屏風」に登場した象と鯨が、仏教美術における涅槃図の世界から、伊藤若冲が影響を受けたのではないかという話を書いたが、今回紹介する「果蔬涅槃図」はタイトルの通り、そのものずばり涅槃図の世界である。そしてこの涅槃図が素晴らしいのは、伊藤若冲にしか思いつかない優れたアイディアに満ちていることだ。

 見ての通りこの絵に描かれたのは、人間や動物ではなく果物と野菜の植物のみである。つまり釈迦の入滅というテーマを、若冲は植物だけで構成するという離れ業でやってのけている。これは奇抜なことこの上ない独創だが、ある種のユーモアも交えつつ、涅槃図を異次元の高みへと解放しながら、仏教の本質を問いかけているのかもしれない。

 涅槃に入る釈迦は画面中央の大根であり、沙羅双樹は玉蜀黍だ。また釈迦の死を悲しむ弟子や信者、それに動物たちは大根を円になって囲む、その他バラエティに富んだ野菜や果物と化している。正直、この絵画世界はパロディと捉えることも可能であろうが、笑いを誘うからこそ教条的ではなく、全ての生命は平等だという、仏教本来の真摯なメッセージが自然に伝わってくるのだ。

 仏教に限らず地球上の宗教美術の多くには、宗教的権威や権力を補強するような匂いが濃厚に感じられたりもするが、元来、涅槃図は仏教美術において、そのような匂いとはほぼ無縁に近い。しかしそれでも、絵の中心に人間の釈迦が配されている以上、釈迦の威光は発せられている。恐らく伊藤若冲はこの威光を取り去り、宗教的権威や権力を微塵も感じさせない絵の完成を目指したかったのだ。ところがじっくり鑑賞すると、モノクロの水墨の世界ではあっても、若冲の植物への慈愛を込めた眼差し、そこから生まれた絶妙な筆さばきや明暗の表現により、植物固有の鮮やかな色彩を想像することは可能である。またその想像の過程において、鑑賞者は崇高な祈りや悟りさえ認識できるはずだ。つまり自らの心に仏性が在ることに気付く。

 伊藤若冲が生きた江戸時代、仏教組織は幕府の法整備によって、武装の牙を完膚なきまでに抜かれた状態になっていた。これはある意味で画期的なことである。なぜならそもそも仏教の始祖の釈迦は武力を否定しているのだから、この状態が間違っているはずがない。ところが戸籍管理まで寺社が全国的に担うことになった為、寺社はすっかりお役所の機能も備えて僧侶は役人よろしく官僚に成り果てた。室町時代や鎌倉時代に幕府に保護されていた禅宗の組織も、そこまで官僚化してはおらず、この統治形態によって地域社会の庶民の日常生活には、身分制の上位に置かれた僧侶からの圧力が生じはじめていたのではないか。 

 この「果蔬涅槃図」は現在、京都国立博物館に所蔵されているが、生前の伊藤若冲はこの絵を伊藤家一族の菩提を弔う京都の宝蔵寺を通じて誓願寺に寄贈した。誓願寺も宝蔵寺も浄土宗の寺院だが、若冲その人は晩年に伊藤家の宗派である浄土宗から黄檗宗に帰依し出家している。この行動を鑑みるに、やはり彼自身の仏教に対する見識は相当に深かったようだ。

 浄土宗の開祖の法然は平安時代末期を生きた敬虔な僧侶であり、比叡山で修行した後、無辜の民の救済を誠実に探究し、称名念仏による浄土への救済を唱えた日本史においても稀有な宗教家である。そして法然の直弟子の親鸞が開いた浄土真宗は、室町時代に親鸞の嫡流の8世である蓮如の代に爆発的に信者数が増える。しかも戦国乱世においては一向一揆で有名な、最大規模の武装蜂起をした宗教勢力にまでなった。

 一方、黄檗宗は江戸時代前期に、中国大陸の明王朝から伝来した臨済宗の新興の一派であり、そこに若冲が魅かれたのは、既存の仏教が彼の目には旧態依然として組織的に世俗化し、教義も形骸化している印象があり、芸術活動において精神面でプラス作用を及ぼす方向性をあまり見出せなかったのではないか。これは宗教に限らず、どんな組織にもいえることだが、組織化の過程で権威や権力が発生すると、それに付随して利権や汚職も生まれてしまう傾向があり、真面目に仏教を信仰していた若冲は、どうやらそこに辟易していたようだ。

 黄檗宗で特徴的なのは、釈迦が説いた唯心の概念である。それはこの世に存在するのは心のみで、目で見える全ての物事や現象も、心の働きがもたらしたものだという教えになる。つまりありとあらゆる偏見は心の働き次第で打破できる。伊藤若冲が想像し創造した涅槃図において、入滅する釈迦も、その死を悲しむ人や動物たち全てが、植物に集約されているそのイメージは、実のところこの真理を理解してもらうには至って自然な姿なのだ。先に述べたように、涅槃図は釈迦を英雄礼賛する情景ではない。しかしながら、それでも解釈によっては、宗教的権威や権力に悪用される可能性は考えられる。ところがこの若冲の手になる涅槃図では、まずそれはあり得ないはずだ。

 そしてこの絵に登場しているトータルで80種類を超える野菜や果物が有名で美味なものだけで構成されていないことも特筆に値する。これは青物問屋が生家であった、描く対象物を知り尽くしていた若冲の制作意志でもあろう。実際、現代では正体不明の野菜さえもが描かれており、ここからも「果蔬涅槃図」には、全ての生命は分け隔てなく平等に尊重されるべきだという仏の教えが、一見すると絵の雰囲気はユーモラスであっても真摯に伝わってくるのだ。またこのユーモアこそが、私たち現代人にとっても社会の理不尽さに気づき、人間が人間以外の生命の尊厳や権利を現状よりも大切にする、またその為の環境をつくるよう、気負わずに私たちの背を押してくれる。

 伊藤若冲は生前に「千年待つ」という言葉を残した。大変深い意味が込められているのは間違いないが、これは彼の制作した作品が彼本人の納得できる形で理解され受容されるには、そのくらいの膨大な時間がかかるという謙虚な姿勢であろう。しかし同時に、彼が生きた近世の18世紀から千年の時が経過した時代、つまり今の21世紀から概算すると28世紀辺りになってしまうが、その気が遠くなるほど先の未来には、きっと現世に浄土のような理想社会が必ず到来していると楽観していたようにも思える。

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