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帯とけの三十六人撰
四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。公任(きんとう)は、清少納言、紫式部、和泉式部、道長らと同時代の人で、詩歌の達人である。この藤原公任の歌論を無視した近世以来の学問的な解釈と解釈方法(序詞・縁語・掛詞などという概念を含む)を棚上げしておき、平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直すのである。公任が「およそ、歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」ということの重要さを認識することになるだろう。
業平 三首(二)
たのめつゝとはで年ふる偽りに 懲りぬ心を人は知らなむ
(頼みにさせつつ・他のめに居つつ、訪れずに年の経つ偽りに、懲りない、浮気な男の・心を、女は知ってほしい……他の女は継続・反復、妻は筒、訪うことなく、としの経つ、逸つ張りに凝り固まらない、おとこ心を、古妻は知ってほしい)
言の戯れと言の心
「たのめ…頼め…信頼・期待する…頼みにさせる…他のめ…ほかの女」「つつ…反復・継続の意を表す…居続ける…し続ける…筒…実なくむなしい」「年…年月…とし…疾し…早すぎる一瞬…おとこのさが」「いつはり…偽り…うそ…だまし…逸つ張り…なくなる張り…出づ張り…避けのがれる張り」「こりぬ…懲りない…性懲りもなく繰り返す…凝りない…凝固しない…堅くならない」「心…男の本性…おとこの本性」「人…女…古妻」
「心におかしきところ」は説明などするまでもなく、大人の男にはわかることだろう。女性にはおとこの本性などわからないかもしれない。業平は知ってほしいと詠んだ。
この歌は、古今和歌集 恋歌二の題しらずの歌の中に躬恒の歌としてある。業平の歌を本歌とする「本歌取り」の歌と推察される。換えられたのは、ただ一文字で、歌はがらりと様子が変わる。
たのめつゝあはで年ふる偽りに 懲りぬ心を人は知らなむ
(期待させながら、逢わずに年月が経つ、嘘偽りのいいわけに、懲りもせぬ恋しい心を、あの人は知ってほしい……頼みにさせつつ、和合できずに、一瞬の時経るいつ張りにも懲りぬ、おとこの乞いする心を、女は知ってほしい)
歌は(逢わぬお姫さまへの恋文……合っても和合ならぬ恋しい妻へのいいわけ)か。「本歌取り」の見事な見本となる。業平の歌とする公任を信頼しよう。
公任を信用しない人は、古今集に躬恒の歌とあるものを、どうして業平の歌とするか、公任の撰集も歌論も信用ならないということになるだろう。
『群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。
以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。
紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。
歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に訊ねた。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で詩歌の達人である。優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。
この言語観については、まず清少納言に学んだ、枕草子(第三段)に言語観を述べている。「同じ言なれども、聞き耳(によって意味の)異なるもの、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(われわれの用いる言葉の全てが多様な意味を持っている)」。
藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。
貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。