帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 小野小町 (二)

2014-07-17 21:04:38 | 古典

       



                    帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。


 公任(きんとう)は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、太政大臣藤原兼家も道長も、藤原公任を詩歌の達人と認めていた。江戸の学者たちの国学とそれを継承した国文学の和歌の解釈は、公任の歌論を無視した。和歌は鎌倉時代に秘伝となって埋もれ木のようになっていたため、漏れ聞く「古今伝授」の歌の解釈やその方法は荒唐無稽に思えたのだろう。そして、字義どおりに歌を聞き、論理実証的に解釈した。解明された歌の内容は、明治時代に正岡子規よって「古今集はくだらぬ集に有之候」「無趣味」「駄洒落」「理屈っぽい」歌のみと罵倒されるまでもなく、味気も色気もない技巧だけがある歌に見える。「古今集」の歌を、「心深く、姿清げで、心におかしきところ」があるなどと思う人は誰もいなくなった。そして、国文学の合理的解釈方法に異を唱える近代人は誰もいないので、そのまま現代に至る。


 清少納言や紫式部は、今の人々と同じように、和歌を聞いていたのだろうか、大いなる疑問である。江戸時代以来の学問的な訳と解釈方法(序詞・掛詞・縁語などの概念を含む)を棚上げして、平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。

 


 小野小町 三首(二)

 思ひつゝぬればや人の見えつらむ 夢としりせばさめざらましを

(思いつつ寝たので、あの人が夢に見えたのでしょうか、夢と知っていれば目覚めないのに……思いつつ濡れたのはもしや、あの人が見たのかしら、夢と知っていれば目覚めないのになあ)


 言の戯れと言の心

「思ひ…思い…思火」「つつ…反復・継続の意を表す」「ぬれ…ぬる…寝る…濡れる」「ばや…だから何々なのか…だとしたら何々だろうか」「人…思い人…愛人…男」「見えつ…(夢に)見えた…(夢の中で)見られた」「見…男女が結ばれること…覯(こう・詩経にある言葉)…媾…みとのまぐあひ(古事記にある言葉)…まぐあい」「さめ…覚め…目覚め」「ざら…ず…打消しの意を表す」「まし…仮に想うことを表す…不満・希望などの意を含むことが多い」「を…感動・詠嘆を表す」

 


 この歌は、古今和歌集 恋歌二に、題しらず、小野小町としてある。恋歌である。まさに乞い歌であって、このような歌を、男(人・あの人)が受け取ったとすれば、雨が降っていようが蓑も傘も取り忘れてびしょ濡れになっても駆けつけるだろう。歌には、詠み人のエロス(性愛・生の本能)が顕れているからである。公任はそれを、「心におかしきところ」と言った。

 

 江戸の学者も、近代の学者も現代の学者も「ぬる」を「濡る」と読む人はいない。学者の、理性、合理性、言語観、倫理観など全てが、此処では、「ぬる」から「濡れる」という意味を排除する。小町や平安時代の人々も同じであるという、論理的実証はできないだろう。

 


 『群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。


 歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に訊ねた。
優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。


 この言語観については、まず清少納言に学んだ、枕草子(第三段)に言語観を述べているのである。「同じ言なれども、聞き耳(によって意味の)異なるもの、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(われわれの用いる言葉の全てが多様な意味を持っている)」と。


 藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。
それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。


帯とけの三十六人撰 小野小町 (一)

2014-07-17 00:05:34 | 古典

       



                    帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。


 公任(きんとう)は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、太政大臣藤原兼家も道長も、藤原公任を詩歌の達人と認めていた。江戸の学者たちの国学とそれを継承した国文学の和歌の解釈は、公任の歌論を無視した。和歌は鎌倉時代に秘伝となって埋もれ木のようになっていたため、漏れ聞く「古今伝授」の歌の解釈やその方法は荒唐無稽に思えたのだろう。そして、字義どおりに歌を聞き、論理実証的に解釈した。解明された歌の内容は、明治時代に正岡子規よって「古今集はくだらぬ集に有之候」「無趣味」「駄洒落」「理屈っぽい」歌のみと罵倒されるまでもなく、味気も色気もない技巧だけがある歌に見える。「古今集」の歌を、「心深く、姿清げで、心におかしきところ」があるなどと思う人は誰もいなくなった。そして、国文学の合理的解釈方法に異を唱える近代人は誰もいないので、そのまま現代に至る。


 清少納言や紫式部は、今の人々と同じように、和歌を聞いていたのだろうか、大いなる疑問である。江戸時代以来の学問的な訳と解釈方法(序詞・掛詞・縁語などの概念を含む)を棚上げして、平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。

 


 小野小町 三首(一)


 花の色は移りにけりないたづらに 我身世にふるながめせしまに

 (わが花顔は色香衰えたようね、ただ何となく、我が身、世に経る、もの思いに耽っていた間に……おとこ花の色情は衰えたようね、はかなくも、わが身に、夜にふる、淫雨に耽っていた間に)


 言の
戯れと言の心

 「花…草の花…女花…華やか…花顔(楊貴妃のような美しい顔)…木の花…梅や桜の花…男花…この花…おとこ花…(花から男花という言の心は、現代、消えているが、古代の歌「難波津に咲くやこの花冬籠り今は春べと咲くやこの花」のこの花は、梅の花であり男花で親王の比喩であった)」「色…色彩…色香…色情」「うつり…移り…変化…衰え」「な…感動・感嘆・詠嘆の意を表す」「いたづら…徒…無駄…なんとなく…無価値…つまらない」「よ…世…男女の仲…夜」「ふる…経る…古る…降る…振る」「ながめ…眺め…ぼんやりもの思う…思いに耽る…長雨…淫雨」



 この歌を、先ず字義通り「花の色彩は盛り過ぎたようね、無駄に、わが身と世に降る、長雨を眺めていた間に」と訳す。草木の花の衰えを感傷的に詠んだ歌。且つ、自身の容貌の衰えを詠んだ歌でもある。


 今では、性愛における男の色の衰えざまを詠んだとする人はいない。「花」が女の美しさの象徴とされ、この歌の「花」の言の心はそれだけの意味に凝り固まってしまったためである。そして、その近代の「言の心」で古代の歌を訳すという間違いを続けて、公任のいう、歌の「心におかしきところ」を見失ったのである。

 

 清少納言は枕草子で、「木の花」と「草の花」をしっかり区別して、それぞれの名のおかしさを述べている。


 

 『群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。


 歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に訊ねた。
優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。


 この言語観については、まず清少納言に学んだ、枕草子(第三段)に言語観を述べているのである。「同じ言なれども、聞き耳(によって意味の)異なるもの、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(われわれの用いる言葉の全てが多様な意味を持っている)」と。


 藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。
それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。