帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 素性 (二)

2014-07-08 00:10:29 | 古典

     



                 帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。公任(きんとう)は、清少納言、紫式部、和泉式部、道長らと同時代の人で、詩歌の達人である。この藤原公任の歌論を無視した近世以来の学問的な解釈と解釈方法(序詞・縁語・掛詞などという概念を含む)を棚上げしておき、平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直すのである。公任が「およそ、歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」ということの重要さを認識することになるだろう。



 素性 三首(二)


 見てのみや人にかたらむ山桜 手ごとに折りて家づとにせむ

 (見るだけか、人に語ろうよ、山桜、手毎に折って、家への手土産にしよう……見ての身や、女に語ろうよ、山ばにさくおとこ花、手ごとに折って、井への贈りものにしよう)


 言の戯れと言の心

 「見…花見…見物…覯…媾…まぐあい」「のみ…だけ…限定の意を表す…の身」「や…疑問の意を表す…反語の意を表す」「人…他の人々…女」「む…意志・勧誘を表す」「山桜…山ばの男はな」「山…山ば」「桜…木の花…男花…おとこ花…さけばたちまち散る」「折…逝」「いへ…家…女…井へ…おんな」「づと…つと…みやげ…贈り物…万葉集巻十八 家持の長歌『橘歌』の一節に『――ほととぎす 鳴く五月には 初花を枝に手折りて をと女らに つとにも遣りみ 白妙の袖にもこきれ 香ぐはしみ――』とある」「せむ…為そう…しょうではないか…意志・勧誘を表す」

 


 この歌は、古今和歌集 春歌上 山の桜を見てよめる 素性法師としてある。「清げな姿」は字義の通りである。「心におかしきところ」は、男の煩悩そのものを、おかしみを添えて詠んだのである。


 近世以来の学問的解釈は、文字通り(字義通り)に聞く一義な歌にする。それだけだとすると、どこが優れた歌か、誰も「心におかし」とも思えない。そこで。解釈者は、できるかぎり字義通りの意味に寄り添うようにして、自らの憶測を加えることになるだろう。客観的で合理的で論理実証的な方法で為されたはずの解釈は、解釈者の憶測の見解が解釈者の数だけあるが、彼らの文脈で、その正否や優劣も判断されることになるのだろう。是は、奇妙な状況である。学者自身が嘆く国文学の解釈不在の現状である。


 「歌の様」を知り「言の心」を心得た人は、という貫之の言葉も、公任の歌論も、俊成の歌論も言語観も無視したままである。



 『群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。


 歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に訊ねた。公任は
清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で詩歌の達人である。優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。


 この言語観については、まず清少納言に学んだ、枕草子(第三段)に言語観を述べている。「同じ言なれども、聞き耳(によって意味の)異なるもの、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(われわれの用いる言葉の全てが多様な意味を持っている)」。


 藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。
それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。