■■■■■
帯とけの前十五番歌合
「前十五番歌合」は、藤原公任が三十人の優れた歌を各一首撰んで、相応しい歌を取り組ませて十五番の歌合の形式にした私撰歌集である。公任の歌論に従って歌の意味を紐解いている。
「前十五番歌合」 公任卿撰
五番
源公忠朝臣
行きやらで山路暮らしつ郭公 今一声のきかまほしさに
(行き進めないで山路で日が暮れた、ほととぎす、今もう一声が聞きたくて……行きつづけられなくて、山ばへの路で途方にくれてしまった、且つ乞う・女の、今一声が聞きたくて)
言の心と言の戯れ
「行きやらで…行き進めないで…行き続けられないで」「山…山ば」「くらしつ…暮らしつ…日が暮れた…暗しつ…暗くなった…途方にくれた…心を暗くした」「郭公…ほととぎす…鳥…言の心は女…小鳥・鶏・鶴などが歌に詠まれてあれば女と心得て、その気になって古歌など聞けば心得られることで、鳥が女である原因理由は誰も知らない…鳥の名…名は戯れる、ほと伽す、おと夜伽す…郭公…カッコウと鳴く鳥…(女の声で)且つ乞う」「まほし…願望を表す」
歌の清げな姿は、山路で鳥の声を聞き一休みした風流。
心におかしきところは、男のはかないさがと限りない思いと。
壬生忠見
さ夜更けて寝覚ざりせば郭公 ひとづてにこそきくべかりけれ
(さ夜更けて寝覚めしなければ、ほととぎす、人づてに、聞くことになるだろうなあ・昨夜カッコウが鳴いていたのよと……さ夜更けて、根覚めなければ、ほと伽す人づてに聞くのだろうなあ・且つ乞うと泣いていたのに何で応えないのよと)
言の心と言の戯れ
「ねざめ…寝覚め…目覚め…根覚め…おとこの覚醒」「ね…寝…子…根…おとこ」「ほととぎす…上の歌と同じ」「ひとづてにこそきく…人伝てにこそ聞く…(鳥から直接ではなく)人を介して聞く…(鳥の声ではなくて)妻を介して聞く」「こそ…強調する意を表す」「べかり…べし…なるだろう…推量の意を表す…なるに違いない…当然の意を表す」「けれ…けり…気付きの意を表す…詠嘆の意を表す」
歌の清げな姿は、深夜に起きて時鳥の声を聞く風流。
心におかしきところは、限りない思いとは裏腹なおとこのはかないさが。
前十五番歌合(公任卿撰)の原文は、群書類従本による。
以下は、国文学的な解釈と大きな違いに疑問を感じる人々に、ここで、和歌を解くとき、基本とした事柄を列挙する。
①藤原公任「新撰髄脳」に「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」とある。公任撰の秀歌集を解くのに、公任の「優れた歌の定義」を、どうして無視することができようか。
②歌を紐解くために公任の歌論の他に参考としたのは、古今集仮名序の結びにある、紀貫之の言葉「歌のさま(様)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と、古来風躰抄に藤原俊成のいう「(歌の言葉は)浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕はる」である。歌の言葉には、それぞれ複数の意味を孕んでいるので、歌にも公任の言う複数の意味が有る。「言の心と言の戯れ」を紐解けば帯が解け、歌の複数の意味が顕れるにちがいない。
③言葉の意味は論理的に説明できない。既成事実としてある意味を、ただそうと心得るだけである。例えば「春」は「季節の春・立春・春情・張る」などという心を、歌に用いられる前から孕んでいる。「季節の春」と一義に決めつけ、他の意味を削除してしまうのは不心得者である。和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を、逆手にとって、歌に複数の意味を持たせてある。
④広く定着してしまった国文学的な和歌の解き方は、ほぼ字義どおりに一義に聞き、序詞や掛詞や縁語であることを指摘して、歌言葉の戯れを把握できたと錯覚させる。そして歌の心について、解釈者の憶見を加えるという方法である。歌の「心におかしきところ」は伝わらない。国文学的方法は、平安時代の文脈から遠いところへ行ってしまっている。あえて棚上げして一切触れない。貫之、公任、俊成の歌論を無視して、平安時代の和歌は解けない。
⑤清少納言は、枕草子の第三章に、言葉について次のように述べている。「同じ言なれども聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり」。言いかえれば、「聞く耳によって意味が異なるもの、それが我々の用いる言葉である。浮言綺語のように戯れて有り余るほど多様な意味を孕んでいる。この言語圏外の衆の言葉は(言い尽くそうとして)文字が余っている」となる。
枕草子に「ほととぎす」について語る所が何箇所かある。その一例、第二章に次のような文が有る。
「四月。木々の木の葉まだいとしげうはあらで、わかやかにあをみわたりたるに、霞も霧もへだてぬ空の気色の、何となくすずろにおかしきに、少しくもりたる夕つ方、夜など、忍びたる郭公の、遠くそらねかときこゆるばかり、たどたどしきを聞きつけたらんは、何心ちかせん」。
(初夏の候。木々の木の葉、未だひどく繁っては無くて、若やかで青みがひろがっているのに、霞も霧もない青い空の景色が、何となく心ひかれ情趣があるときに、少し曇った夕方や夜など、忍んでいる郭公の、遠く空耳かと声が聞こえる程に、たどたどしい声を聞けば、何心地がするでしょうか……うつき。男の子の端、いまだ繁っては無くて、若やかで青いのが幅ひろげていて、澄んだ清らかな若い女の気色が、何となく心ひかれるときに、少し曇った夕方や夜など、忍んでいる女の且つ乞う、遠く空耳かと声が聞こえる程に、たどたどしい声を聞けば、何心地がするでしょうか)。
すでに心得た言の心は、「木…男」「空…天…あま…女」「郭公…ほととぎす…鳥…女」。
文の清げな姿は、初夏の景色に時鳥の初声。
心におかしきところは、若い男女の初々しくも果てしなさそうな夜の仲。
この文は、和歌と同じ文脈にあり、清少納言の言語観に相応しい。