帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの前十五番歌合 八番

2014-12-09 00:05:53 | 古典

       



                   帯とけの
前十五番歌合


 

「前十五番歌合」は、藤原公任が三十人の優れた歌を各一首撰んで、相応しい歌を取り組ませて十五番の歌合の形式にした私撰歌集である。公任の歌論に従って歌の意味を紐解いている。


 

前十五番歌合 公任卿撰


 八番    

小野小町

色みえてうつろふものは世の中の 人の心の花にぞありける

(色彩目に見えて衰え・散るものは、世の中の人の心の華だったことよ……色見えずに衰えゆく物は、夜の仲の男の此処ろの端だったのねえ)


 言の心と言の戯れ

「色…色彩…色情」「みえて…目に見えて…みえで…見えずに…見ることできず」「見…覯…媾」「うつろふ…変わる…衰える」「世の中…男女の仲…夜の仲」「人…人々…男」「こころのはな…心の花…心の変わりやすさ…此処ろの端…おとこ」「ろ…強調する詞」「花…桜など…咲き散りやすい物…はな…端…身の端」「ける…けり…気付き・詠嘆の意を表す」

 

歌の清げな姿は、移ろいやすい花を人の心変わりの喩えとした。

心におかしきところは、うつろいやすいおとこのさがを、其処らの花に喩えた。

 

 

清原元輔

秋の野の萩の錦をわがやどに 鹿の音ながらうつしてしがな

(秋の野の萩の色彩りの錦織を、わが家に、鹿の声も一緒に、移したいなあ……飽きの果て方のひら野の端木の西木よ、わがや門にしかの根そのまま移しうえたいなあ)


 言の心と言の戯れ

「秋…飽き…果て方」「野…山ばではない」「萩…あきに白や紅紫色の花を咲かせる草花ながら、端木と戯れて…言の心は男」「木…言の心は男」「にしき…錦織…彩り豊かな織物…色情豊富なもの…西木…死に木」「を…対象を示す…感嘆詞…おとこ」「やど…宿…家…屋・門…言の心は女」「しかのね…鹿の音…鹿の声…肢下の根…おとこ」「てしがな…できたらなあ…したいなあ…自己の願望を表す」

 

歌の清げな姿は、我が家の庭造りに関する願望。

心におかしきところは、うつろいやすいおとこのさがに、男の願望を述べるところ。


 

上のように「清げな姿」に「心におかしきところ」のある歌の様(表現様式)は、万葉集において既にできていた。多少、詞が違ったり、素朴だったりするだけである。聞きましょう。


 万葉集 巻第八 秋雑歌、山上憶良

秋の野に咲きたる花をおよび折り かきかぞふれば七種の花  其の一

 (秋の野に咲いた花を、お指折りかき数えれば七種類の花……飽きの野に咲いたお花よ、のしかかり折り、掻き彼ぞ振れば、七種の女の華・咲く)

 

言の心と言の戯れ

「および…指…及び…近く迫り…のしかかり」「おり…折り…逝き」「かき…接頭語…掻き」「かぞふれば…数えれば…彼ぞ振れば」「ななくさ…七草…七種…七種類」「花…草花…言の心は女…華…栄華…盛り」


清げな姿:秋の七草のこと。
心におかしきところ:おとこ掻き振り折れ逝けば、七種の女の栄華あり。


 

萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし 又藤袴 朝かほの花 其の二

(萩の花、尾花、葛花、撫子の花 女郎花、それに加えて藤袴、朝顔の花……端木の花、お花、屑花・屈す花、撫で撫でした子、をみな圧し、又もや粗末な端かまあ、浅かおの花)


 言の心と言の戯れ

「はぎ…萩…端木…おとこ」「お花…尾花…すすき…薄…おとこ花」「くず…葛…屑…屈す」「なでしこ…撫子…撫でし子の君」「をみなへし…女郎花…をみな圧し…女押さえつけ」「又…復…またまた」「ふぢはかま…藤袴…粗末な衣…粗い織の着物…粗い端か間」「あさかほ…朝顔…浅かお…浅はかなおとこ…あさましいおとこ」


清げな姿:秋の七草の名の羅列。(旋頭歌)
心におかしきところ:おとこのはかなさ、あらさ、あさはかさを、草の名につけて表現するところ。

 

清少納言枕草子第六十三章に「草は、さうぶ、こも、あふひ、いとをかし」とある。これも(草は、菖蒲、菰、葵、とっても趣がある……女は、双夫、来も、合う日、とってもおかしい)などと聞く耳をもてば、共にいとをかし(興味津々・おもしろそう)と思うことができる。

 

憶良らの万葉集の歌も小町の歌も元輔の歌も、清少納言の不定形の文も、その表現方法は時代を越えて共通している。それを捉えて示したのが公任の歌論である。

 

前十五番歌合(公任卿撰)の原文は、群書類従本による。


 

以下は、国文学的な解釈と大きな違いに疑問を感じる人々に、ここで、和歌を解くとき、基本とした事柄を列挙する。

 

①藤原公任「新撰髄脳」に「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」とある。公任撰の秀歌集を解くのに、公任の「優れた歌の定義」を、どうして無視することができようか。

 

②歌を紐解くために公任の歌論の他に参考としたのは、古今集仮名序の結びにある、紀貫之の言葉「歌のさま(様)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と、古来風躰抄に藤原俊成のいう「(歌の言葉は)浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕はれる」である。歌の言葉には、それぞれ複数の意味を孕んでいるので、歌にも公任の言う複数の意味が有る。「言の心と言の戯れ」を紐解けば帯が解け、歌の複数の意味が顕れるにちがいない。

 

③言葉の意味は論理的に説明できない。既成事実としてある意味を、ただそうと心得るだけである。例えば「春」は「季節の春・立春・春情・張る」などという心を、歌に用いられる前から孕んでいる。「季節の春」と一義に決めつけ、他の意味を削除してしまうのは不心得者である。和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を、逆手にとって、歌に複数の意味を持たせてある。