■■■■■
帯とけの前十五番歌合
「前十五番歌合」は、藤原公任が三十人の優れた歌を各一首撰んで、相応しい歌を取り組ませて十五番の歌合の形式にした私撰歌集である。公任の歌論に従って歌の意味を紐解いている。
前十五番歌合 公任卿撰
十三番
源重之
やかずとも草はもえなむ春日野を たゞ春の日に任せたらなむ
(焼かなくとも、草は萌えるだろう、春日野を、ただ春の陽に任せてほしい……心焦らずとも、女はきっと燃えるだろう、若なつむ・春日野を、ただ青春の火にまかせてほしい)
言の戯れと言の心
「やかず…焼かず…心焦らず…心悩まず」「草…若菜…言の心は女」「もえ…萌え…芽が成長する…(女心が)燃える」「もえなむ…きっと萌えるだろう…きっと燃えるだろう…確実と思われる推量を表す」「春日野…春の日に若菜摘む野…春の日に男女交歓するところ」「春の日…春の陽…青春の火…春情の火」「まかせたらなむ…任せてほしい…(本人たちに)まかせてほしい…願望を表す」
歌の清げな姿は、正月春日野の若菜摘みについての感想。
心におかしきところは、青春の男女の交歓についての思い。
源順
水の面にてる月なみをかぞふれば こよひぞ秋の最中なりける
(水面に照る月次を数えれば、今宵こそ、八月・秋の真最中だなあ……女の身な面に照り栄えるおとこの身を、彼ぞ振れば、こ好いぞ、飽き満ち足りの真っ盛りだなあ)
言の戯れと言の心
「水…言の心は女」「おも…顔…面…表面」「照る月…輝き映える月…元気な月人壮士…ほてるおとこ」「月…言の心は男・壮士…突き…尽き」「つきなみ…月次…突き波」「を…対象を示す…お…おとこ」「かぞふ…数える…彼ぞ振る」「こよひ…今宵…子酔い…小好い」「秋…季節の秋…飽き…飽き満ち足り…厭き…ものの果て」「もなか…最中…最盛時」
歌の清げな姿は、八月中秋の名月を観賞しての感想。
心におかしきところは、飽きの盛り歓び交わす若者の思い。
歌合としてのおかしさは、はるの思火とあきの思火の対比。清少納言枕草子風に言えば、「正月三月五月(睦突き、や好い、さ突き)」と「七八九月(なな、やあ、ここのつき)」の対比。
前十五番歌合(公任卿撰)の原文は、群書類従本による。
以下は、国文学的な解釈と大きな違いに疑問を感じる人々に、和歌を解くときに基本とした事柄を列挙する。
①藤原公任の歌論「新撰髄脳」に、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」とある。公任撰の秀歌集を解くのに、公任の「優れた歌の定義」を無視することはできない。
②歌を紐解くために公任の歌論の他に参考としたのは、古今集仮名序の結びにある、紀貫之の言葉「歌のさま(様)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と、古来風躰抄に藤原俊成のいう「(歌の言葉は)浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕はれる」である。歌の言葉には、それぞれ複数の意味を孕んでいるので、歌にも公任の言う複数の意味が有る。「言の心と言の戯れ」を紐解けば帯が解け、歌の複数の意味が顕れるにちがいない。
③言葉の意味は論理的に説明できない。既成事実としてある意味を、ただそうと心得るだけである。例えば「春」は「季節の春・立春・春情・張る」などという心を、歌に用いられる前から孕んでいる。「季節の春」と一義に決めつけ、他の意味を削除してしまうのは不心得者である。和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を、逆手にとって、歌に複数の意味を持たせてある。
④広く定着してしまった国文学的な和歌の解き方は、ほぼ字義どおりに一義に聞き、序詞や掛詞や縁語であることを指摘して、歌言葉の戯れを把握できたと錯覚させる。そして歌の心について、解釈者の憶見を加えるという方法である。歌の「心におかしきところ」は伝わらない。国文学的方法は、平安時代の文脈から遠いところへ行ってしまっている。あえて棚上げして一切触れない。貫之、公任、俊成の歌論を無視して、平安時代の和歌は解けない。
⑤清少納言は、枕草子の第三章に、言葉について次のように述べている。「同じ言なれども聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり」。言いかえれば、「聞く耳によって意味が異なるもの、それが我々の用いる言葉である。浮言綺語のように戯れて有り余るほど多様な意味を孕んでいる。この言語圏外の衆の言葉は(言い尽くそうとして)文字が余っている」となる。これは清少納言の言語観である。(国文学では、職域や性別による言葉のイントネーションの違い、耳に聞こえる印象の違いを述べたものとされているようである)。
清少納言の言語観は貫之のいう「言の心」や、公任のいう秀歌にあるべき三つの意味などにも適う。俊成のいう「歌の言葉は浮言綺語の戯れに似たれども深き旨も顕れる」に継承されている。
⑥和歌は鎌倉時代に秘伝となって歌の家に埋もれ木のようになった。「古今伝授」と称して一子相伝の口伝が行われたが、そのような継承は数代経てば形骸化してゆく。江戸時代の学者たちの国学と、それを継承した国文学によって和歌は解明されたが、味気も色気もない歌になってしまった。秘伝となったのは、歌言葉の浮言綺語の如き戯れの意味と、それにより顕れる性愛に関する「心におかしきところ」である。これらは、清少納言や俊成の言語観を曲解していては解けない。永遠に埋もれ木のままである。
⑦江戸時代、和歌はどのように捉えられていたか、其の一、荷田在満「国歌八論」の冒頭に「それ歌は、ことばを長うして心をやるものなり」とある。(歌は言葉を長く引く調べで詠じて、心を晴らすものである)ということだろう。そして、貫之の「心に思ふことを見る物きく物ににつけていひい出せるなり(歌は心に思うことを見るもの聞く物に託し・こと寄せて・言い出すものである)」は歌を言い尽くしていないと難ずる。其の二、賀茂真淵「歌意考」には、「上代より・心に思ふ事ある時は言にあげてうたふ。こを歌といふめり」と書き出される。考察は最後まで、貫之・公任・俊成の歌論や清少納言の言語観は無視して進められてある。さらに江戸後期の香川景樹は「歌の調べを重んじた」という。和歌の意味がわからなくなった時、和歌は文芸ではなく音楽になってしまうらしい。