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帯とけの前十五番歌合
「前十五番歌合」は、藤原公任が三十人の優れた歌を各一首撰んで、相応しい歌を取り組ませて十五番の歌合の形式にした私撰歌集である。公任の歌論に従って歌の意味を紐解いている。
前十五番歌合 公任卿撰
十四番
平兼盛
かぞふれば我が身につもる年月を 送りむかふと何いそぐらむ
(数えれば、我が身に積る年月を、送り迎えると、師走に・何を急いで準備しているのだろうか……彼ぞ振れば、我が身に積る疾し突き・尽きるおを送り迎えると、女房たち・何をいそいでいるのだろうか)
言の戯れと言の心
「かぞふれば…数えれば…彼ぞ振れば…彼ぞ経れば」「年月…年齢…疾し突き…早過ぎる尽き」「月…月人壮士…言の心は男…突き…尽き」「を…対象を示す…お…おとこ」「送りむかふ…旧年を送り新年を迎える…送迎運動をする」「いそぐ…準備する…忙しなくする…急ぐ」「らむ…推量する意を表す…原因理由を推量する意を表す」
歌の清げな姿は、正月の準備に慌ただしいさま。
心におかしきところは、山ばのの頂上へ京へといそぐありさま。
中務
うぐひすの声なかりせば雪きえぬ 山里いかで春をしらまし
(鶯の声が無かったならば、雪の消えない山里、どうして春を知るのでしょうか……浮く泌すの声なくかりすれば、逝き消えられない山ばのおんな、いかずに春の情を知るのでしょうか・白ら増し)
言の戯れと言の心
「うぐひす…鶯…春告げ鳥…鳥の言の心は女…鳥の名…名は戯れる。受く秘す、浮く泌す、憂く退す」「なかりせば…無かったならば…無くかりすれば」「かり…刈り…狩り…猟…あさり…むさぼり…まぐあい」「雪…白雪…行き…逝き」「山里…山ばのさと…山ばの女」「里…言の心は女…さ門」「春…季節の春…春情」「いかでしらまし…如何で知らまし…どうして感知するのよ…逝かず白じらしさ増し」「まし…もし何々なら何々でしょうに」
歌の清げな姿は、春告げる鶯の声を褒めたたえるところ。
心におかしきところは、山ばの京へといそぐ女のありさま。
鶯や山里の言の心や戯れの意味は、古今集の歌でも当然のことながら同じである。春歌上、在原棟簗(業平の子)の歌を聞きましょう。中務の歌よりも、百年近くも前に詠まれた。
春たてど花もにほはぬ山里は もの憂かるねに鶯ぞ鳴く
(立春になれど、花も匂わない山里は、もの憂い声で鶯が鳴いている……張る立てど、お花も色づかず匂いもしない山ばの女は、もの憂い声で、根について、憂く避すぞと、泣いている)
前十五番歌合(公任卿撰)の原文は、群書類従本による。
以下は、国文学的な解釈と大きな違いに疑問を感じる人々に、和歌を解くときに基本とした事柄を列挙する。
①藤原公任の歌論「新撰髄脳」に、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」とある。公任撰の秀歌集を解くのに、公任の「優れた歌の定義」を無視することはできない。
②歌を紐解くために公任の歌論の他に参考としたのは、古今集仮名序の結びにある、紀貫之の言葉「歌のさま(様)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と、古来風躰抄に藤原俊成のいう「(歌の言葉は)浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕はれる」である。歌の言葉には、それぞれ複数の意味を孕んでいるので、歌にも公任の言う複数の意味が有る。「言の心と言の戯れ」を紐解けば帯が解け、歌の複数の意味が顕れるにちがいない。
③言葉の意味は論理的に説明できない。既成事実としてある意味を、ただそうと心得るだけである。例えば「春」は「季節の春・立春・春情・張る」などという心を、歌に用いられる前から孕んでいる。「季節の春」と一義に決めつけ、他の意味を削除してしまうのは不心得者である。和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を、逆手にとって、歌に複数の意味を持たせてある。
④広く定着してしまった国文学的な和歌の解き方は、ほぼ字義どおりに一義に聞き、序詞や掛詞や縁語であることを指摘して、歌言葉の戯れを把握できたと錯覚させる。そして歌の心について、解釈者の憶見を加えるという方法である。歌の「心におかしきところ」は伝わらない。国文学的方法は、平安時代の文脈から遠いところへ行ってしまっている。あえて棚上げして一切触れない。貫之、公任、俊成の歌論を無視して、平安時代の和歌は解けない。
⑤清少納言は、枕草子の第三章に、言葉について次のように述べている。「同じ言なれども聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり」。言いかえれば、「聞く耳によって意味が異なるもの、それが我々の用いる言葉である。浮言綺語のように戯れて有り余るほど多様な意味を孕んでいる。この言語圏外の衆の言葉は(言い尽くそうとして)文字が余っている」となる。これは清少納言の言語観である。
清少納言の言語観は貫之のいう「言の心」や、公任のいう秀歌にあるべき三つの意味などにも適う。俊成のいう「歌の言葉は浮言綺語の戯れに似たれども深き旨も顕れる」に継承されている。
清少納言枕草子は「鶯」「山里」などの「言の心」を心得た人が読む物。読んでみましょう。
枕草子第三十八より、
鶯は、文などにもめでたきものにつくり、声よりはじめてさまかたちも、さばかりあてにうつくしき程よりは、九重の内になかぬぞいとわろき。
(鶯は、漢詩などにも愛でたいものに作り、声よりはじめ様子や姿も、あれほど上品で可愛らしいわりには、九重の内で鳴かないのは、まったく良くない……春告げる女は、手紙などにも愛でたくなるように装い、声よりはじめ様子や姿も、あれほど貴く可愛らしいわりには、九つ重ねるうちに泣かないのは、たいそうよくない)
「九重…宮中…宮こ…京…感の極み…たびかさね」。
鶯ならぬ女の性情を述べている。二見や三かさの山でも愛でたいのに多く山ば重ねても春告げて泣かない女は、良くないということ。
枕草子第二百六より
さつきばかりなどに山里にありく、いとをかし。
(五月ごろに山里にでかける、とっても風情がある……さ突きのころ合いに、山ばの女で・繰り返し・在り続ける、しみじみと感動する)
「さつき…五月…さ突き」「さ…美称」「月…壮士」「ありく…ぶらりとでかける…在り来…状態を継続する…在り繰…情態を繰り返す」「をかし…情趣がある…しみじみと感動する」。
いきなりの「いとをかし」に同感できるのは、山里はじめ五月などの戯れの意味を心得て居る者だけである。