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帯とけの前十五番歌合
「前十五番歌合」は、藤原公任が三十人の優れた歌を各一首撰んで、相応しい歌を取り組ませて十五番の歌合の形式にした私撰歌集である。公任の歌論に従って歌の意味を紐解いている。
前十五番歌合 公任卿撰
十五番
人丸
ほのぼのとあかしの浦の朝霧に 島かくれ行く舟をしぞ思ふ
(ほのぼのと明けへゆく明石の浦の朝霧のなか、島隠れゆく舟を、惜しとぞ思う……ほのぼのと飽き満ちゆく女心が、浅限りのために、し間隠れ逝くふ根を、愛しと、思う)(柿本人麻呂)
言の戯れと言の心
「ほのぼの…ほんのり…ほのかに」「あかし…明かし…(夜を)明かし…飽かし…飽き満ちゆきし…明石…地名。名は戯れる、あかし女」「石…言の心は女」「うら…浦…女…裏…心」「あさきり…朝霧…朝限り…惜別のとき…浅限り」「浅さ…深みが無い…短い」「に…時や場所を示す、原因理由を表す他、多様な意味に用いられる言葉」「しま…島…肢間…股間」「ゆく…行く…逝く」「ふねを…舟を…夫根お…おとこを」「をし…惜しい…愛しい」「し・ぞ…強く指示する意を表す」
歌の清げな姿は、明石の浦の朝霧の中を漕ぎ行く舟の景色
心におかしきところは、女の立場で表現したおとこのはかない性(さが)。
深い心は憶測するほかない。この歌は古今集 巻第九羇旅歌に、題しらず よみ人しらず、左注に「この歌は、ある人の曰く、柿本人麿が歌なり」としてある。流人の小野篁朝臣の歌と、東の国へ都を逃れて行ったと思われる在原業平朝臣の歌で、挟むようにして並べられてある(歌集では歌の並びそのものが何かを伝えるので重要である)。
山邊赤人
和歌の浦に潮みちくれば潟をなみ 葦べをさして田鶴鳴き渡る
(和歌の浦に潮満ち来れば、干潟なくなるので、葦辺をめざして、鶴鳴き渡る……若のうらに、しお満ちくれば、かたお汝身、脚辺をさして、多づ泣きつづく)(山部赤人)
言の戯れと言の心
「わか…和歌…所の名…名は戯れる。若、若もの」「うら…浦…言の心は女…裏…心…末…端…身の端」「しほ…潮…しお…おとこ」「かたをなみ…潟を無み…干潟を無くして…片男浪…片お汝身…堅お汝身…堅いおとこの身」「あしべ…葦辺…脚辺」「たづ…鶴…鳥…言の心は女…多津…多情女」「津…言の心は女」「鳴き…泣き」「わたる…飛び渡る…つづく」
歌の清げな姿は、浪と鶴の海辺の景色。
心におかしきところは、若い女のエロス(性愛・生の本能)。
素晴らしい実景描写と程よいエロチシズムこそ、紀貫之が赤人を絶賛する理由だろう。古今集仮名序に次のようにいう。
「山辺の赤人といふ人ありけり。歌に妖しく、妙なりけり。(歌のひじりの)人麻呂は、赤人が上に立たむこと難く、赤人は人麻呂が下に立たむこと難くなむありける」。
此の歌合の結びの一番に、人丸と赤人の歌を組み合わせたのは、公任も、両歌から貫之と同じ意味を感じ取って、同じ評価をしているものと思われる。今のわれわれも、貫之・公任の解釈に近づいたという確信が得られれば、ほんとうの解釈に達したのだろう。
前十五番歌合(公任卿撰)の原文は、群書類従本による。
以下は、国文学的な解釈と大きな違いに疑問を感じる人々に、和歌を解くときに基本とした事柄を列挙する。
①藤原公任の歌論「新撰髄脳」に、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」とある。公任撰の秀歌集を解くのに、公任の「優れた歌の定義」を無視することはできない。
②歌を紐解くために公任の歌論の他に参考としたのは、古今集仮名序の結びにある、紀貫之の言葉「歌のさま(様)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と、古来風躰抄に藤原俊成のいう「(歌の言葉は)浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕はれる」である。歌の言葉には、それぞれ複数の意味を孕んでいるので、歌にも公任の言う複数の意味が有る。「言の心と言の戯れ」を紐解けば帯が解け、歌の複数の意味が顕れるにちがいない。
③言葉の意味は論理的に説明できない。既成事実としてある意味を、ただそうと心得るだけである。例えば「春」は「季節の春・立春・春情・張る」などという心を、歌に用いられる前から孕んでいる。「季節の春」と一義に決めつけ、他の意味を削除してしまうのは不心得者である。和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を、逆手にとって、歌に複数の意味を持たせてある。
④広く定着してしまった国文学的な和歌の解き方は、ほぼ字義どおりに一義に聞き、序詞や掛詞や縁語であることを指摘して、歌言葉の戯れを把握できたと錯覚させる。そして歌の心について、解釈者の憶見を加えるという方法である。歌の「心におかしきところ」は伝わらない。国文学的方法は、平安時代の文脈から遠いところへ行ってしまっている。あえて棚上げして一切触れない。貫之、公任、俊成の歌論を無視して、平安時代の和歌は解けない。
⑤清少納言は、枕草子の第三章に、言葉について次のように述べている。「同じ言なれども聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり」。言いかえれば、「聞く耳によって意味が異なるもの、それが我々の用いる言葉である。浮言綺語のように戯れて有り余るほど多様な意味を孕んでいる。この言語圏外の衆の言葉は(言い尽くそうとして)文字が余っている」となる。これは清少納言の言語観である。(国文学では、職域や性別による言葉のイントネーションの違い、耳に聞こえる印象の違いを述べたものとされているようである)。
清少納言の言語観は貫之のいう「言の心」や、公任のいう秀歌にあるべき三つの意味などにも適う。俊成のいう「歌の言葉は浮言綺語の戯れに似たれども深き旨も顕れる」に継承されている。
⑥和歌は鎌倉時代に秘伝となって歌の家に埋もれ木のようになった。「古今伝授」と称して一子相伝の口伝が行われたが、そのような継承は数代経てば形骸化してゆく。江戸時代の学者たちの国学と、それを継承した国文学によって和歌は解明されたが、味気も色気もない歌になってしまった。秘伝となったのは、歌言葉の浮言綺語の如き戯れの意味と、それにより顕れる性愛に関する「心におかしきところ」である。これらは、清少納言や俊成の言語観を曲解していては解けない。永遠に埋もれ木のままである。
⑦江戸時代、和歌はどのように捉えられていたか、其の一、荷田在満「国歌八論」の冒頭に「それ歌は、ことばを長うして心をやるものなり」とある。(歌は言葉を長く引く調べで詠じて、心を晴らすものである)ということだろう。そして、貫之の「心に思ふことを見る物きく物ににつけていひい出せるなり(歌は心に思うことを見るもの聞く物に託し・こと寄せて・言い出すものである)」は歌を言い尽くしていないと難ずる。其の二、賀茂真淵「歌意考」には、「上代より・心に思ふ事ある時は言にあげてうたふ。こを歌といふめり」と書き出される。考察は最後まで、貫之・公任・俊成の歌論や清少納言の言語観は無視して進められてある。さらに江戸後期の香川景樹は「歌の調べを重んじた」という。和歌の意味がわからなくなった時、和歌は文芸ではなく音楽になってしまうらしい。
前十五番歌合(公任卿撰)を新しい方法で紐解き終えた。
和歌の意味が国学や国文学の解くような意味でしかないことは、もはや明らかだが、長年にわたって定着した国文学的な解釈から簡単には抜け出せないだろう。今のところ、ゾウの耳にたかった一匹のハエにすぎないが、ゾウはもはや行き場をなくしている。ほんとうに平安時代の文芸の真髄に達したためだろうか、それにしては解明された歌の意味などが「くだらない」と思わせるのはなぜか。我が飛びゆくところに和歌の意味の華の山がある。ゴミの山だろうか。
数日休んで、次は「後十五番歌合」(公任撰 一説 定頼撰)を紐解くつもりである。