帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第一 春 (二十七)(二十八)

2015-01-31 00:17:52 | 古典

        



                     帯とけの拾遺抄



 「拾遺抄」十巻の歌の意味を、主に藤原公任の歌論に従って紐解いている。

紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解して、この時代の和歌を解釈するのは無謀である。彼らの歌論によれば、和歌は清げな衣に包んで表現されてある。その姿を観賞するのではなく、歌の心を憶測するのでもなく、「歌の様(表現様式)を知り」、「言の心」を心得れば、清げな衣に「包まれた」歌の「心におかしきところ」が顕れる。人の「心根」である。言い換えれば「煩悩」であり、歌に詠まれたからには「即ち菩提(真実を悟る境地)」であるという。


 

拾遺抄 巻第一 春 五十五首


       承平四年中宮賀の屏風に               (忠峯)

二十七 はるのたをひとにまかせてわれはただ 花に心をつくるころかな

承平四年(934年)中宮の(五十歳)賀の屏風に   (古今集撰進より三十年後、忠岑も六十歳以上の老人)

(春の田を、若い・人に任せて、我はただ、草花に心を寄せて親しむ頃かな……春情の田を・多を、人にまかせて、我はただ、男花のように、心を偽り装う頃だなあ)

 

歌言葉の「言の心」と言の戯れを紐解く

「はる…四季の春…春情」「た…田…言の心は女…多…多情」「花…草花…女花…木の花…男花…おとこ端」「人…若い人…貴女様のような人…他人」「花に…花に対して…男花のように」「心をつくる…心を付くる…心を寄せ親しむ…心を作る…心を偽ってその様を装う」「かな…感動を表す…か・な…疑問を表す」

 

歌の清げな姿は、長寿の言祝ぎ。

心におかしきところは、田の多情と、ただ偽り装うだけの木の端と対比するところ。

 

この歌、『拾遺集』では作者を斎宮内侍(伊勢の斎宮に仕える女官)とする。女の歌として聞けば、

(春の田を、人に任せて、わたくしは、ただ、草花に心を寄せ親しむ今日この頃よ……春の情の多々を他の人に任せて、わたくしは、ただ、おとこ花に、心を偽り、汚れなき女を・装っている今日この頃よ)。

 

 

      題不知                      元方

二十八 春たてば山田のこほりうちとけて 人の心にまかすべらなり

題しらず                    (在原元方・業平の孫)

(立春ともなれば、山田の氷うち融けて、人の心にまかす様子だ・耕している……張る立てば、山ばの、女の・多のこほりうち解けて、男の心に任す様子だ)

 

歌言葉の「言の心」と言の戯れを紐解く

「春たてば…立春ともなれば…張る立てば」「山田…山の田んぼ…山ばの女」「田…言の心は女…多…多情」「こほり…氷…子掘り、井ほりなどともいう…まぐあい」「うちとけて…うち融けて…うち解けて…心を許して」「うち…接頭語」「人…農夫…男」「べらなり…する様子だ…推量の意を表す」

 

歌の清げな姿は、立春の日の山田の景色。

心におかしきところは、はる立つ男と山ば多々の女のようす。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。


 

以下は、当時の人たちの捉えた和歌の真髄である。原文を掲げる。


 紀貫之の歌論の表われた部分を古今和歌集『仮名序』より書き出す。

○やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、こと(事・言)、わざ(業・ごう)繁きものなれば、心に思ふこと(事)を、見る物、聞くものに付けて、言ひ出せるなり。

○歌の様(表現様式)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに、いにしへ(古)を仰ぎて、今を(今の歌を)恋いざらめかも(きっと恋しがるであろう)。


 藤原公任の歌論は『新撰髄脳』の「優れた歌の定義」にすべてが表われている。

○およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしき所あるを、すぐれたりといふべし。


 清少納言は『枕草子』で、歌について、このようなこと言っている。

○その人(後撰集撰者の父元輔)の後(後継者)と言われぬ身なりせば、今宵(こ好い)の歌を先ずぞ詠ままし。つつむこと(慎ましくすること・清げに包むこと)さぶらはずは、千(先・千首)の歌なりと、これより出でもうで来まし。


 藤原俊成は『古来風躰抄』に、よき歌について、次のように述べている。

○歌は、ただ読みあげもし、詠じもしたるに、何となく、艶(艶めかしいさま・色っぽいさま)にも、あはれ(しみじみとした情趣を感じること・同情同感すること)にも、聞こゆることのあるなるべし。

 

上のうち、「ことの心」「心におかしきところ」「包まれてある・慎むべき内容」「艶に聞こゆるところ」が、近世以来の国学と近代の国文学的解釈では消えている。国文学的方法で解明できたのは、和歌の清げな姿で、和歌の真髄は埋もれたままである。